「松永久通」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈
「松永久通」とは?簡単に説明
歴史にあまり興味ない方でも姓名からある程度判断がつく方も多いでしょう、かの「松永久秀」の嫡男です。
父・久秀が戦国時代の「申し子」乱世の「梟雄」と古くから呼ばれ、現代では「ボンバーマン」などと呼ばれ、良くも悪くも名が知られているため、どうしても影が薄くなってしまうのは致し方ないところでしょう。
しかし久通も久秀に加担し、戦国時代の武将ならではの梟雄を務めたのはあまり知られていません。
父とともに畿内をかき乱した久通はどんな晩年を過ごしたのでしょうか?
「松永久通」の晩年
大和国の多聞山城を攻められた久秀・久通親子は信長に降伏しますが、信長の思惑により許され生かされることになりました、亡くなる4年前のことです。
その後は大和守護「塙直政」のもとで今の天理にあった龍王山城城主を務め、信長の畿内攻略に貢献していきました。
その際には嫁の一族である「十市遠長」を攻め、柳本城を攻略しています。
さらには石山戦争に参加、激戦天王寺の戦いで死亡説が流れるほどの死地から生還を果たしています。
居城龍王山城を破却したばかりの77年8月17日に突如父と共に信貴山城に籠城し、信長に反旗を翻すのでした。
「松永久通」の死に様
信貴山城で籠城した久通でしたが織田勢の数に勝る力押しの前に緒戦こそ健闘したものの思わぬところから反旗があがり、それが致命傷となるのでした。
救援を「石山本願寺」に頼み、鉄砲隊200が信貴山城に入ることになります。
この時に久秀が信頼していたのは「筒井順慶」の元譜代「森好久」で彼は筒井家と内応しており、鉄砲隊は本願寺のものではなく筒井隊からのものだったのです。
こうして戦国時代の世の理でもある裏切りを受けた松永親子は自害、久通は享年35歳でした。
「松永久通」の死に様の信憑性
通説には幾つかありますが、大和国での出来事ですので俊英の『多聞院日記』を参照にするのがもっとも信憑性が高いと思われます。
その記述には「昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了」とされており、現代で俗説である“爆死”ではなく、自害であったとされています。
信貴山城に籠城する前に既に支城である柳本城で討伐されていたとも多聞院日記に記載がありますが真偽は不明。
また落城後に逃げ、途中で農民にうたれた説が書かれたのは江戸時代の随筆『老人雑話』であり、信憑性に乏しいとしか言いようがありません。
まとめ
父・久秀に帯同し、幾つもの謀略に参加してきた久通ですが、最後の最後に自分達が裏切り行為が自分たちに返ってくることになったのは皮肉としか言いようがありません。
有名な平蜘蛛を抱えて爆死の件の初見は『川角太閤記』であり、江戸時代の伝聞から生まれたもの。
第一次資料として信頼度が高く、特に地元大和国の出来事だけにより精査があがると思われる『多聞院日記』では切腹後焼けた首4つが安土城に運ばれた記載があります。
しかし支城の柳本城で討ち取られた記載もあるため安土城へ運ばれたものの中に久秀のものは確実にあると思われますが、久通の首が実際になかった可能性も否定できません。