伝説のロックバンド『キャロル』は語り草「ジョニー大倉」の散り際とは?
この記事ではジョニー大倉の晩年と最期について解説していきます。
「ジョニー大倉」とは?簡単に説明
イメージされるのはやはり外見で代名詞であるリーゼントだと言っていいでしょう。
日本でのロック=リーゼントは大倉氏や「矢沢永吉」氏らキャロルの面々が定着させたと言っても過言ではありません。
代表曲は7作目のシングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」。
またキャロル解散後は音楽活動だけではなく、役者としても活躍しています。
特にVシネマや映画での極道・ヤクザ・チンピラといったいわゆるアウトローな役柄で人気を博すことになりました。
「ジョニー大倉」の晩年
2009年1月に肝臓に悪性リンパ腫が発覚。
同年3月末に放射線治療で除去し、予後は良好でした。
しかし病魔は次々と大倉氏を襲います。
若い頃に精神病院へ入院、奇行癖があったのは知られていますが、この時にもストレス性の心疾患を抱えていたと言います。
また緑内障の悪化もそれに輪を加えたと言っていいでしょう。
リンパ腫は寛解したかに思えました。
しかし13年5月の検査で最大15センチの腫瘍が肺に14~15個発見され、過酷な闘病生活に突入していくことになりました。
「ジョニー大倉」の死に様
2014年11月19日17時56分に東京都渋谷区の日本赤十字社医療センターにて永眠。
62歳没。
死因は2013年に発覚した肺癌の悪化による肺炎によるものでした。
「ジョニー大倉」の死に様の信憑性
東京スポーツ紙上で連載を持っていた時期があり、その所縁で闘病生活の逸話についても同紙で多く語られています。
14年4月に開催された復活ライブでは髪の毛こそ失っていたもの髭を蓄え、ふっくらした外見だったこともあり、ファンを安心させていました。
13年6月に発見された肺癌は末期的なものでしたた。
しかし1日12時間の抗がん剤投与を週5日、計4クール行ったことで劇的に癌の大きさが縮小。
復活ライブはもとより自身の40周年イベントにも目処が立ちました。
しかし好事魔多し、8月に体調不良で入院。
リハビリに励むも10月に肺炎を罹患すると回復は叶いませんでした。
余命宣告されながらも大幅に延命できたのは化学療法が効を奏したのに加え、ウォーキングと経口による栄養摂取で体力を維持できたのが大きいと言えるでしょう。
本来癌に糖質は御法度と言いますが、病院のレストランでパフェが生き甲斐にしていたことが後日談として語られています。
また入院中は車椅子生活をおくっていました。
しかし19日の午前中、自分の力で立ちたいと息子の「ケニー大倉」氏に告げると肩をかりてベッドの上で立ち上がる奇跡を見せています。
しかしそこで気力、体力を使い果たしたのかもしれません。
13時に容態が急変。
そのまま回復できずに夕方に力尽きてしまいました。
まとめ
2014年11月19日17時56分に渋谷区広尾の入院先で永眠。
62歳没でした。
死因は10月に罹患した肺炎によるものでした。
また肺炎に繋がった大きな要因としては、13年6月に発覚した肺癌が挙げられます。
腫瘍の数は15個以上と言われ、年内どころか余命は2週間と宣告される末期状態でした。
抗がん剤治療で14年春には復活ライブを行うほどに一度は回復しています。