「筒井順慶」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「筒井順慶」の死に際とは?日本の人物

「筒井順慶」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。

「筒井順慶」とは?簡単に説明

筒井順慶は畿内、大和国の戦国大名筒井家の当主、元の名は藤勝、その後藤政に改名。

齢17にして陽舜房順慶を名乗り、これ以降は順慶を名乗るようになりました。

畿内の小大名の順慶ですが『元の木阿弥』、『日和見順慶』『洞ケ峠を決め込む』の語源として現代にもその痕跡を残します。

大きく本人の行動が揶揄されたのは本能寺の変後の順慶の煮え切らない姿勢を例えられた後者の2つの言葉でしょう。

その一方、民には支持を受けており『多聞院日記』には順慶が床に臥せた際、容態に奈良一円の人々が焦燥した記載があるほどです。

「筒井順慶」の晩年

順慶の晩年は極めて厳しいものになったと言えるでしょう。

本能寺の変において、明智光秀が主君・信長を討ち果たしましたが、順慶にとって光秀は縁戚かつ友人、そして信長に仕える際に仲介役をしてくれた恩人の為、複雑な心境かつ微妙な立場だったと言えます。

この当時筒井順慶の直轄だけで18万石、与力を含めれば45万石の畿内最大の大名であった順慶の動向は戦局を大きく左右するため、光秀は当初から順慶の助力をあてにしていました。

細川親子が助力を即時に拒んだのに対して、順慶は結論を先送りし、10日に秀吉への恭順を決めました。

与力だった順慶の未参戦は衝撃的で光秀は洞ケ峠にまで進軍し参戦を促しますが、順慶の態度は変わらず。

その結果光秀は山崎の合戦で敗走することになりますが、順慶にとってもその後は厳しいものがありました。

羽柴秀吉への恭順は10日に決まっていたもの拝謁は14日。

日和見になったことは否めず、その参陣の遅さを理由に叱責を受けます。

秀吉の叱責は相当に堪えたようで、順慶は体調を崩し、床に臥せてしまうほどでした。

このため信頼を受けることができなかったのは本人もひしと感じていたことでしょう。

この不信を拭うため、順慶は賤ヶ岳の合戦などに従軍、汚名返上をはかります。

しかし体調の悪化した1584年小牧・長久手の戦いにも出陣を促され、恭順を示すため戦いに赴かざるをえませんでした。

「筒井順慶」の死に様

1584年の初頭から床に臥すほどの胃の痛みを抱えていたと伝えられていますが、春には秀吉から小牧・長久手の戦いへの出陣を促されます。

山崎の合戦時に参陣の遅さを咎められ叱責された負い目もあったのでしょう。

病身の立場で戦場へ赴かなくてはなりませんでした。

さらに病を負った身体で伊勢から美濃への転戦は症状を悪化させることになったのでしょう。

合戦は長引き、秀吉、家康陣営ともににらみ合いが続き時間だけが経過、夏の終わりに帰還を許されます。

大和国に着いてまもなくの9月15日居城郡山城にて息を引き取りました。

享年36歳で死因は内臓系の疾病で病死とされています。

「筒井順慶」の死に様の信憑性

順慶は畿内大和国の出身で筒井家自体が興福寺からの出自でもあるため、縁が深いのは言うまでもありません。

そのため歴史的資料として価値の高い英俊の『多聞院日記』での記載も多く、そしてその記載は信憑性も高いものだと言えるでしょう。

まとめ

小牧・長久手の戦いの頃には既に秀吉は失敗した者に関しては苛烈な処断をする姿勢を見せていました。

このため順慶には病を理由に出陣を見送る算段はできなかったのかもしれません。

その後養子の定次が跡を継ぎ、筒井騒動を経て順慶の死後30年で筒井家は断絶したことを思えば、例え日和見と言われようも家中をまとめ、存続への道を探った順慶の手腕は評価されるべきでしょう。

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