「甘粕景持」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「甘粕景持」の死に際とは?日本の人物

戦国武将である「甘粕景持」とは、歴史上でどのような人物なのでしょうか?

甘粕景持の人生の概略を解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「甘粕景持」とは?簡単に説明

「甘粕景持(あまかすかげもち,生年不詳-1604年)」は、戦国時代に「上杉四天王・越後十七将」の一人に数え上げられていた武将です。

甘粕景持は上杉謙信・景勝に仕えて活躍した武将として知られますが、その生年や謙信の家臣になった具体的な経緯は不明で謎も多い人物です。

甘粕景持の最初の名前は「甘粕長重」でしたが、謙信から一字をもらう偏諱(へんき)を受けて「甘粕景持」と改名しました。

甘粕景持は長尾景虎(後の上杉謙信)と関東管領・上杉憲政に従って、北条氏康を攻める小田原攻めで活躍しました。

甘粕景持の武功として有名なのは、永禄4年(1561年)8月に武田信玄と戦った「川中島」の戦いで殿軍(しんがりぐん)を務めたことで、その殿軍において景持は「越後の虎」と称された上杉謙信と見間違えられるほどの武勇を発揮したと伝えられています。



「甘粕景持」の後半生・晩年

「甘粕景持」の後半生は、長く仕えた上杉謙信の死去(天正6年・1578年)から始まります。

越後国のカリスマ的な領主であった上杉謙信の没後に、「御館の乱」が発生して謙信の二人の養子である上杉景勝と上杉景虎が争います。

甘粕景持は御館の乱では勝者となる上杉景勝に味方して、その晩年は景勝に忠義を尽くす家臣として過ごすことになります。

その後に勃発した「新発田重家(しばたしげいえ)の反乱」においても、甘粕景持は三条城城主として景勝軍の兵站を支えて、天正14年(1586年)には勇猛な鉄砲大将として敵の武将を打ち取る武勲を上げています。

北陸地方で勢力を張っていた上杉家は会津に移封されてからも、豊臣秀吉が天下を取っていた時代までは「五大老」の一つとして栄えましたが、甘粕景持は「会津移封後・関ヶ原の戦いの敗戦後」も変わらず上杉景勝に忠義を尽くす晩年を送りました。



「甘粕景持」の死に様

「甘粕景持」の晩年は、豊臣秀吉の天下統一によって「武人・武将」から「文人・役人」に転換することになりました。

武将として活躍する場も無くなった甘粕景持は、上杉家執政・直江兼続(なおえかねつぐ)の指揮下で、「検知奉行」として田畑の測量などの職務に当たっていました。

関ヶ原の戦い(1600年)で石田三成(豊臣方)が徳川家康に負けたことで、上杉家も大幅に減俸されて米沢藩に移されました。

石高が減らされて米沢に移封されても最後まで上杉家に仕えた甘粕景持でしたが、慶長9年6月26日(1604年7月22日)に米沢藩内の自邸で死去したと伝えられています。

すでに戦乱の時代ではなく死因は老衰・病死と推測されますが、死後の景持は曹洞宗竜言寺に葬られました。

甘粕氏の墓は、栄松寺(現在は廃寺)に置かれました。

「甘粕景持」の死に様の信憑性

「甘粕景持」の死に様の信憑性は、死亡した年と月日の正確な記録が残っていることから高いと言えます。

「関ヶ原の戦い」に勝った徳川家康が天下を治めた後は戦乱の時代ではないため、甘粕景持は平時の米沢藩の地で寿命・病気によって死んだと考えられます。

まとめ

「甘粕景持」の大まかな人生と晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「甘粕景持」は、最後まで上杉景勝に仕えて減俸された米沢藩で死去しました。

「甘粕景持」について調べたいときは、この記事の内容を参考にしてみてください。

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