この記事では、「引田天功(初代)」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「引田天功(初代)」とは?
「引田天功(初代)」とは、1960年代から1970年代にかけて活躍した日本のマジシャン及びイリュージョニストです。
奇術界の中興の祖と呼ばれる松旭斎天洋に師事し、脱出マジックを得意としていました。
爆発や水中といった極限状態の中から脱出するマジックは、テレビの特番などで放送され人気を集めました。
大掛かりなパフォーマンスはテレビで高視聴率をたたき出し、日本の脱出王と呼ばれたこともあります。
「引田天功(初代)」の晩年
「引田天功(初代)」は、日本を代表するマジシャンとして成功を収めます。
しかし、晩年は体調に問題を抱えていました。
心筋梗塞を起こしたこともあり、心臓に持病を抱えていたのです。
また、脱出マジックは危険と隣り合わせなもので、練習中に怪我を負うことも多かったといいます。
大量の火薬を使った爆発なども行うので、一歩間違えれば命を落としかねないものでした。
そこで体の負担を減らすため、晩年は催眠術を使ったパフォーマンスも取り入れていました。
また、1976年からタレントの朝風まりを弟子として指導します。
1977年に「引田天功(初代)」が心筋梗塞で倒れた際には、朝風まりが代役を務めています。
「引田天功(初代)」の死に様
「引田天功(初代)」は、1979年に亡くなりました。
大晦日に亡くなり、翌日の元旦に訃報のニュースが流れています。
享年45でした。
「引田天功(初代)」に師事していた朝風まりが、翌年に二代目・引田天功を襲名しています。
その後はプリンセス・テンコーと呼ばれるようになり、日本屈指のイリュージョニストとして活躍します。
「引田天功(初代)」の死に様の信憑性
「引田天功(初代)」の死因は、心筋梗塞を起こしたことによる心臓発作とされています。
元々、心臓に持病がありました。
しかし、脱出マジックで有名だったことから、脱出マジックに失敗して命を落としたという噂が流れます。
また、爆発する際の煙を大量に吸い込んだことで、命を落としたという噂もありました。
マジシャンという特殊な職業からそういった噂がまことしやかに囁かれましたが、信憑性は低いです。
まとめ
「引田天功(初代)」は晩年もマジックに取り組んでいたましたが、体調が思わしくないことから体に負担の少ない催眠術を取り入れたマジックを行っていました。
しかし、心筋梗塞により45歳で亡くなっています。