「豊臣秀頼」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「豊臣秀頼」の死に際とは?日本の人物

「豊臣秀頼(とよとみひでより)」とは?

豊臣秀頼の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「豊臣秀頼」とは?簡単に説明

豊臣秀吉の三男。

秀頼は秀吉の側室だった淀殿の第二子でしたが、上の二人が夭折したため豊臣家の嫡男となります。

秀吉死後も秀頼は秀吉の後継者として徳川家と一定の対等性を維持していましたが、1614年の「方広寺鐘銘事件」を口実にして徳川家は秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発します。

両者は一時和解しますが、再び起こった大坂夏の陣で豊臣方は徳川方に敗れてしまいます。



「豊臣秀頼」の死に様

大坂夏の陣で徳川家康の軍に敗れた豊臣秀頼は秀頼側近の大野治長の進言で母・淀殿と逃走を試みますが、大阪城本丸の北に位置する山里丸あたりで徳川軍に包囲されてしまいます。

大野治長は「秀頼の正室の千姫(家康の孫)は脱出させるので、その引き換えに秀頼を助けて欲しい」と交渉します。

しかし、千姫の父で家康の嫡男でもある徳川秀忠が拒否したため、交渉は決裂します。

これにより最期を悟った秀頼は1615年6月4日(慶長20年5月8日)に大阪城の山里丸内の糒倉(ほしいぐら)で母の淀殿や二十余人の家来と共に自刃して果てます。

秀頼の介錯は毛利勝永が行なったそうです。

享年23歳でした。

秀頼と淀殿自刃後、山里丸には火が放たれ、豊臣家は業火の中で滅亡するのでした。

秀頼と千姫との間に子はいませんでしたが、側室との間に3人の子がいました。

しかし、男児である国松はのちに捕まって六条河原で処刑され、天秀尼、求厭という二人の娘は出家することを条件に助命されています。



「豊臣秀頼」の死に様の信憑性

豊臣秀頼の最期については多くの史料が残っています。

山科言緒の日記「言緒卿記」には秀頼が櫓の脇にいて淀殿の次に助命嘆願の言葉を述べたとのことです。

「舜日記」にも秀頼・淀殿は自害したと書かれています。

「春日社司祐範記」「薩藩旧記雑録後編」には大坂城内の千畳敷で自害したとあります。

ただ自害の記載が多い中で、「本光国師日記」には唐物倉に籠っていた秀頼らが降参してきたので皆殺しにして火をかけたとあります。

秀頼らを射殺したのは井伊直孝、安藤対馬らと書いています。

その様子は他の史料と比べても実に具体的で信憑性は一番高そうですが、情報が錯綜していた可能性もあるため、その他の史料の内容も考慮し史実としては自害したという言葉で包括して濁しているようです。

「豊臣秀頼」の小ネタ等

1980年に大坂城三ノ丸跡の発掘調査で3名の人の頭蓋骨と馬の頭の骨が発見されています。

この頭蓋骨の一つが20代男性のものと判明しており、豊臣秀頼のものではないかと推測されています。

全く確証のない話ですが、ここで秀頼が死んだことはほぼ間違いないことから、それが秀頼の頭蓋骨であったとしても可能性はあり、不思議ではありません。

一方、秀頼は大坂城を生きて脱出し、鹿児島にわたって生き延びたという伝説まで伝わっていますが、これはかなり信憑性の低い話です。

まとめ

天下人・豊臣秀吉の後継者として生まれながら、その天下を継承することなく23歳という若さで散った豊臣秀頼は1615年6月4日(慶長20年5月8日)に大坂城内で自害しています。

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