石田三成との友誼に従い、関ヶ原で散った知勇兼備の名将・大谷吉継の晩年や最期を紹介します。
「大谷吉継」とは?簡単に説明
大谷吉継は近江の生まれで、天正年間の初めごろに羽柴秀吉の小姓となりました。
生年ははっきり分かっていません。
秀吉麾下で、石田三成と仲が良かったためか、所謂「文治派」に分類されますが、軍事・内政両面で活躍しており、加藤清正ら「武断派」との仲は悪くなかったと言われています。
病(ハンセン氏病という説が有力)で顔が崩れてしまっていたため、白い頭巾をかぶっていました。
「大谷吉継」の晩年
豊臣秀吉の死後、天下を狙う徳川家康の策謀により、再び天下が乱れ始め、関ヶ原の戦いが起こります。
このとき、吉継は、石田三成の要請で西軍につきました。
その際、吉継は三成の挙兵を止めようとしましたが、三成との友情のために西軍で戦うことを決意したと言われています。
「大谷吉継」の死に様
1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原にて東西両軍の大規模な衝突が始まりました。
吉継は、関ヶ原の西南にあたりに布陣します。
病気で体が弱っていましたが、後方で指揮を執り、東軍の藤堂高虎・京極高知らを相手にし、有利に戦いを進めました。
松尾山に布陣していた小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷勢を襲いますが、吉継は僅かな兵で小早川勢を押し返します。
しかし、朽木元網ら4将も東軍に寝返って大谷勢を攻めると、さすがの吉継もこれを抑えられず、大谷勢は壊滅してしまいます。
吉継は、戦のさなかに自害し、部下に介錯させました。
「大谷吉継」の死に様の信憑性
関ヶ原戦の後、大谷吉継の首は見つかっていません。
しかし「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」という辞世の句が残っていること、また、「吉継の首を関ヶ原に埋めた」という、介錯した部下による証言があることから、吉継が関ヶ原で死んだことはほぼ間違いないと考えられます。
(首を埋めたことに関しては創作の可能性もあります) また、討たれたのであれば首実検がされているはずですが、そういった記録も無いため、切腹し、何らかの形で首が失われた可能性が高いと考えられます。
石田三成との友情
石田三成と特に親しかったとされています。
大坂城で開かれた茶会でのこと。
参加者は茶を1口ずつ回し飲みしていましたが、吉継が茶碗に口をつけると、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけでした。
(吉継の顔から出た膿が茶に落ちていたという説もあり) しかし、三成は気にせず茶を飲みました。
吉継は感激し、このことが、吉継が関ヶ原で西軍に参加した理由の一つになったと言われています。
まとめ
大谷吉継の晩年や最期について紹介しました。
難病に侵されながらも、類まれなる才能を発揮した吉継。
彼であれば、関ヶ原で西軍に与せず、生きながらえたかもしれません。
しかし、彼は石田三成との友誼に生き、関ヶ原で華々しく散っていきました。