この記事では、「若山牧水」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「若山牧水」とは?
若山牧水とは明治から昭和にかけて活躍した歌人で、その生涯では9000首もの歌を残しました。
数多くの歌集を残していますが、1910年に発行された「別離」で牧水は自然主義の歌人として歌壇での地位を確立します。
庶民の心にも広く浸透し、人気歌人となりました。
若山牧水の代表歌には、「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」があります。
また、短歌だけではなく随筆や紀行文、童話なども手掛けています。
「若山牧水」の晩年
若山牧水は旅が好きで、晩年もあちこち旅をしていたといいます。
妻の喜志子とは1912年に結婚しており、翌年には長男を授かっています。
4人の子どもに恵まれますが、子どもが生まれてからも牧水は旅に出かけていました。
喜志子も歌人で、牧水が主催する「創作」にも作品を発表しています。
旅が多い夫に代わり留守を守りながら歌を詠んでいました。
牧水も旅先から喜志子に手紙を書いていて、1日に2通も書いていたといいます。
それから1920年には、一家で沼津に移住しています。
牧水が沼津の自然を気に入ったためです。
沼津に自宅を新築したことで、牧水は多額の借金を抱えました。
出版事業にも携わっており、そのための借金もしています。
そのため一家の生活は決して楽ではありませんでした。
「若山牧水」の死に様
若山牧水は、1928年9月17日に自宅で亡くなりました。
享年43です。
死因は肝硬変で、急性胃腸炎も併発していたといいます。
亡くなる前年には妻と共に2カ月にわたる朝鮮旅行に行っていますが、体調不良のため帰国しています。
「若山牧水」の死に様の信憑性
若山牧水の死因である肝硬変は、長年の飲酒によって引き起こされたと考えられています。
牧水は酒豪として知られ、1日に1升のお酒を飲んでいたといいます。
それ以上の量を飲むこともありました。
日本酒やビール、ウイスキーなどを飲んでいたといいます。
皆とワイワイ飲むのではなく、1人で酒を味わうことを楽しんでいました。
「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」などお酒にちなんだ短歌も沢山あります。
まとめ
若山牧水は晩年も旅に出かけながら、数多くの短歌を残しました。
お酒が好きで毎日かなりの量を飲んでいましたが、肝硬変になり亡くなってしまいます。
享年43です。