「聖徳太子(しょうとくたいし)」とは?
聖徳太子の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「聖徳太子」とは?簡単に説明
聖徳太子という名前は死後に与えられる尊号である諡(おくりな)であって、本名は「厩戸皇子」です。
聖徳太子は仏教を信仰していた用明天皇の子として自らも仏教を学び、蘇我馬子とともに仏教を中心とした国づくりを進めます。
また、叔母の推古天皇の摂政として朝廷に仕え、遣隋使の派遣や「冠位十二階」や「十七条憲法」などの施策を実施したことでも有名です。
「聖徳太子」の死に様
結論から先に言いますと、聖徳太子の死因は不明です。
そんな中で「聖徳太子は病死である」というのが定説です。
飛鳥時代は感染症で亡くなる人が多かったと言われています。
感染症とは天然痘のことで、聖徳太子が亡くなったとされる当時は天然痘が大流行していました。
母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が621年12月に天然痘で亡くなっており、翌622年2月21日に妻の膳部大郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなっています。
聖徳太子が亡くなるのはその翌日22日のため、3人はほぼ立て続けに亡くなっていることになります。
一見不自然なような連続死ですが、感染力の強い天然痘で亡くなったとするとむしろ真実味があります。
逆に彼らの死を不自然と見たのが暗殺説・自殺説です。
暗殺説には蘇我馬子による陰謀説と刀自古郎女による嫉妬説があります。
自殺説は聖徳太子と妻の膳部大郎女が1日違いで亡くなっていることから解釈された説のようです。
「聖徳太子」の死に様の信憑性
聖徳太子の天然痘による病死説の根拠は法隆寺金堂釈迦三尊像背銘に書かれた文面です。
そこには「聖徳太子と膳部大郎女が病気になり、釈迦像を造像し病気が治ることを願った」という趣旨の記載があります。
病気になったという文字がはっきりと残っていることからも当時流行していた天然痘に罹って死に至ったという解釈は説得力があります3人の亡くなった日も具体的に記載されており、信憑性が高く、定説と言われる所以でしょう。
一方、母、妻に続いて後を追うように亡くなったのは不自然とするのが暗殺説や自殺説で、その中でも蘇我馬子による陰謀説がよく言われています。
蘇我氏の権力を強めるためというのが目的で、実際にそれを思わせる出来事がのちに山背大兄王殺害事件として行われています。
また、暗殺説の一つとして刀自古郎女(とじこのいらつめ)による嫉妬説があります。
聖徳太子の墓は叡福寺にある磯長墓(しながのはか)ですが、そこは母と妻の膳部大郎女との3人による合同墓になっています。
聖徳太子には4人の妻がいますが、唯一一緒の墓になった膳部大郎女に嫉妬した妻のひとり刀自古郎女が暗殺を企てたとする説です。
さらに自殺説ですが、これは平安時代に書かれた「聖徳太子伝歴」の記述が根拠になっています。
ただし、根拠に乏しく、ただ単に聖徳太子の死をドラマチックに仕立てたもののようにも思えます。
「聖徳太子」の小ネタ等
権力者一族の婚姻は政略的なものが多いのはいつの時代も変わりませんが、1日違いで亡くなり同じ墓に眠ることになった聖徳太子と4人いた妻の一人である膳部大郎女とが結ばれるきっかけは、川で野菜を積んでいた膳部大郎女を見かけた聖徳太子の一目惚れだったとか。
当時としては珍しいことのようです。
まとめ
記録がほとんど残っていない1400年も前の人物のことなので不明なことは多いですが、これだけ偉大な人物だったことで、その死に関しても想像豊かにさまざまな説が飛び交うのが面白く、興味深いことです。