「石原莞爾(いしわらかんじ)」とは?
石原莞爾の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「石原莞爾」とは?簡単に説明
石原莞爾は明治から昭和初期にかけての陸軍軍人、軍事思想家です。
1931年、中国北部にある満州に駐留していた陸軍の関東軍によって満州事変が起こりますが、これを立案・実行したのが「世界最終戦論」を唱えていた戦略の天才・石原莞爾でした。
しかし、日中戦争では不拡大方針を唱えて左遷されます。
再び関東軍に赴任してからもその時の上司である東條英機とことごとく対立した人物です。
「石原莞爾」の晩年
やがて陸軍を追われた石原は、1941年4月に立命館大学の国防学研究所長に就任し、講師も務めます。
ここでは国防論・戦争史・国防経済論を教えたほか、課外教育として乗馬も指導したそうです。
しかし、東條首相らに干渉を受け、9月には立命館大学教授を辞して郷里の山形県鶴岡に帰ります。
戦後行われた東京裁判では、満州事変の首謀者である石原の罪は確実視されていましたが、何と連合国側の勘違いで罪を免れます。
戦犯指定された石原広一郎と石原莞爾を「石原」違いで勘違いしたのが原因でした。
慌てた連合国側は石原を起訴しようとしますが、病床の身で入院中だったため、結局戦犯リストから外れるのでした。
故郷に戻った石原はその後、高瀬村の西山農場で同志達と共同生活を送り、余生を過ごしました。
「石原莞爾」の死に様
石原莞爾は1949年(昭和24年)8月15日に膀胱がんで死去します。
ただし、死因は膀胱がんだけでなく、肺水腫や肺炎も併発していたようです。
臨終が近いのを知った石原は、まわりの者が泣くと「泣かんでもいい」と言います。
しかし、しばらくして容態が回復すると「ありがたいが、臨終までの時間が長引くようでは皆さんにかえって迷惑がかかるというものだ」とも言ったそうです。
享年61。
「石原莞爾」の死に様の信憑性
石原は幼少期に麻疹にかかるなど生まれながらに病弱な身体で、若いときからすでに病気がちで後半生も持病に悩まされます。
持病というのは、関東軍参謀在任中に乗馬した際、誤まって軍刀で下腹部(睾丸)を傷つけ、それが原因で膀胱を患ったのです。
満州事変後、内地に戻った時にはすでに相当悪化しており、膀胱内乳頭腫摘出のための手術も受けています。
そして、終戦後は入退院を繰返す療養生活を送っていたそうです。
まとめ
天才と言われながら、不遇な時期の多かった石原莞爾ですが、その一貫した信念はしっかり筋が通っていて小気味よい人物です。
口の悪さも災いしたようですが、昭和史に残る人物の一人でしょう。