豊臣秀吉の実弟でありながら、生涯に渡り天下人を支え続けた「豊臣秀長」ですが、非常に温厚で秀吉に唯一欠点を指摘したり、秀吉に対する批判を受け入れる存在だったとされています。
他の大名からの信頼も厚く、秀長の助言は非常に的確だったそうです。
そんな「豊臣秀長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「豊臣秀長」とは?簡単に説明
秀長は、長らく秀吉の異父弟とされていましたが、近年では同父だったのではないかという説が唱えられています。
幼少期からと他の兄弟とは才能があった秀長は、その才能をすぐに発揮し、木下小一郎長秀と名乗り、秀吉に仕えます。
数々の合戦に参加したり秀吉に代わって城を守るなどの大役を務めてきました。
1585年の四国征伐では、病気で参戦できなかった秀吉の代わりに総大将となり、敵であった長宗我部元親を降伏させるという戦果もあげています。
この功績により大和国を与えられ大名となりますが、大和国は宗教や侍の影響が強く、統制が難しい土地とされていました。
しかしその後大和国での大きな問題も残していない事から、内政にも非常に有能だったことが分かります。
その最期は病死であるとされています。
「豊臣秀長」の死に様
「豊臣秀長」は1951年2月15日、郡山城内で病死したとされています。
52歳でした。
1590年ごろから体調が悪化し、小田原征伐には参加できていません。
同年10月には秀長の甥の羽柴秀次が秀長の回復祈願のため、談山神社に訪れているなど、病状はかなり悪かったと推測されています。
「豊臣秀長」の死に様の信憑性
秀長の病死は、その原因は詳しくは分かっていませんが、一部では結核であったのではないかとの説も存在します。
しかしながら当時の医者であった玄朔が記した書記には、ヒ素中毒である可能性が指摘されているため、陰謀による暗殺ではないかとの説も存在します。
もちろん誰による毒殺だったのか、理由はなんだったのかについては一部で徳川家が関わっているとの説もありますが、憶測の域を超えていないため、現在では病死であったか、毒殺であったかは定かではありません。
「豊臣秀長」の小ネタ等
秀長は非常に温厚な性格であったため、8回も主君を変えたとされた武将・藤堂高虎が秀長には心服し、忠義を尽くしています。
まとめ
秀吉の実弟でありながら、秀吉の天下統一への道を陰で支えた「豊臣秀長」。
秀長がいなければ秀吉の天下統一は成しえなかったとさえ言われている名将でした。
その最後は病死とされていますが、一説には暗殺説もあります。
今となっては事実は闇の中ですが、天下人を支えた武将である事は間違いないでしょう。