有機農法実践家「藤本敏夫」の死に際とは?
この記事では藤本敏夫の晩年と散り際について解説していきます。
「藤本敏夫」とは?簡単に説明
存命中の藤本氏を知らなくとも「大地を守る会」ならば知っている方は多いのではないでしょうか。
同会の初代会長を務めた人物でいち早く有機農法を実践するとともに普及振興に尽力しました。
また多面性があり、後年同会で見せる温和な表情とは打って変わり、激しい表情を見せていたのは学生運動家時代でした。
1968年10月には国際反戦デー防衛庁抗議行動に参加して逮捕されると半年以上拘置されています。
また歌手「加藤登紀子」氏と結婚、長女八恵も「Yae」名義で歌手になっています。
「藤本敏夫」の晩年
有機農法の普及と振興活動が評価され、農林水産省関東農政局の諮問委員として様々な提言を行っています。
また登紀子夫人・娘yae両氏とともに『土に生きる』をテーマに藤本氏のトークと夫人と娘のライブの2本柱によるイベントを全国主要12都市で開催するなど積極的な活動を行っていました。
「藤本敏夫」の死に様
2002年7月31日15時、東京都港区虎ノ門の虎の門病院で死去。
58歳没。
死因は正確には肺炎の悪化によるもの。
入院する理由になった肝臓癌と記している記事も多く見受けられます。
「藤本敏夫」の死に様の信憑性
登紀子夫人が歌手であり、死去時には会見を行っています。
00年代に入ると新聞各社は著名人の回顧録をこぞって連載、その中で夫人が語る藤本氏の闘病生活も刻まれています。
01年夏に肝臓癌が発覚、以降入退院の繰り返しになっていたそうです。
それでも当人は執筆活動を続けており、亡くなる1ヶ月前の『農山漁村文化協会』のインタビュー依頼も当初は藤本氏が港区の虎の門病院を抜け出して、渋谷区千駄ヶ谷の夫人の事務所まで出向く予定でした。
結果体調不良で虎の門病院の病室でのインタビューに切り替わりましたが、亡くなる1ヶ月前にはまだ動ける体力と気力はあったようです。
容態が急変したのは亡くなる前日の30日のこと。
肺炎を発症、夫人が駆けつけた際には既にSpO2が70台の数値だった事が明かされています。
翌日3人娘や親類が揃ったところで「もう、いいだろう」と呟くと、自らの手で酸素吸入用のマスクが外したそうです。
このくだりは夫人の回顧録や著書でより詳細に知る事ができるでしょう。
まとめ
2002年7月31日15時、入院先の東京都港区にある虎の門病院で永眠。
58歳没。
直接の死因は肺炎ですが、1年前に罹患した肝臓癌と記してある文書も多く見受けられます。
前年に肝臓癌が再発した段階で既に余命1年の宣告を医師より受けていました。
それでも藤本氏は執筆活動を精力的に行い、肝臓癌の新たな治療方法を自身で模索。
生きる気力に満ちていたとされます。
実際亡くなる1ヶ月前には病院のある港区虎の門から夫人の事務所がある渋谷区千駄ヶ谷まで移動してインタビューを受けるはずでした。
体力と気力はまだあったもの7月30日に肺炎に罹患すると瞬く間に重症化し、翌日息を引き取っています。
最後は自身から酸素吸入用のマスクを取り外し、死を受け入れたようです。