現役横綱の突然死、その死が反響を呼んだ「玉の海正洋」の死に際とは?
この記事では玉の海正洋の晩年と死に際について解説していきます。
「玉の海正洋」とは?簡単に説明
1972年の大相撲は1つの巨星が消え、2つの新星が輝くを放つ予定でした。
前者は言わずとしれた世紀の大横綱「大鵬」、後者が「北の富士」と「玉の海正洋」であるのはオールドファンならば解っていただけるはずです。
71年秋大鵬氏が引退したことにより、大相撲界は北の富士氏と大横綱大鵬の弟弟子でもある玉の海氏の双頭による時代が到来。
暫く続くものと予想されていました。
「玉の海正洋」の晩年
1969年9月場所において生涯2度目の幕内優勝を飾ると翌場所はやや不甲斐ない成績で終わり、横綱昇進が見送りにされています。
しかし翌70年初場所において13勝で準優勝。
69年7月に「柏戸」が引退「大鵬」氏も力の落ちこみは如実に現れていました。
新たなスターを誕生させたい思惑があったのかはわかりません。
しかし前場所10勝ながらも安定感を買われて、横綱審議委員会満場一致での昇進が叶っています。
昇進後は横綱審議会の期待通りに高いレベルでの安定感を見せつけ、70年夏場所以外では優勝戦線に絡み続け、71年7月のご当地名古屋場所では全勝優勝を果たし、高い名声と評価を受けることになりました。
しかし好事魔多しとはこのこと。
まさかの顛末が玉の海氏に待ち受けていました。
「玉の海正洋」の死に様
1971年10月11日11時30分、東京都港区の虎ノ門病院で死去。
27歳没。
死因は急性冠症候群ならびに肺血栓によるものでした。
「玉の海正洋」の死に様の信憑性
現役の横綱が亡くなったことは今までにもありましたが、それは戦前の話。
NHKのテレビ、ラジオによる大相撲中継により、全国どこでも相撲中継が楽しめる時代になっていただけにその死は全国的な反響を呼ぶことになりました。
また当然ながら病理解剖も行われており、肺の主幹動脈から5センチもの血塊が見つかったことが翌日の朝刊の社会面に掲載されるほどでした。
11日7時30分に起床。
その後洗顔を終え病室で倒れるとチアノーゼまで発症。
しかし病室で倒れたことが幸いして速やかに処置が行われると、意識不明ではあるもの回復傾向を見せていたそうです。
しかし快方までは至らずに無意識下で胸の痛みを呟いたのが最期の言葉になりました。
前日から本人は今までに感じたことのない胸の痛みを経験。
片男波部屋の女将に死ぬほどの激痛だったことを明かしています。
また一門の見舞客にも死の予兆めいた言葉を残していたのも逸話として有名な話です。
まとめ
1971年10月11日11時30分、東京都港区の虎ノ門病院で死去。
27歳没。
死因は急性冠症候群と右肺動脈幹血栓症によるものでした。
当日朝7時30分に起床。
洗顔後に倒れたと言われます。
病室で倒れたことで応急措置は速やかに取られ、心臓の鼓動は力強さを増しましたが、一時的なものでした。
同年5月から既に虫垂炎であり措置を後回しにした結果、腹膜炎寸前まで悪化していたと言います。
4日入院後の経過は順調で翌日には退院が予定されていました。
その一方で前日10日には既に一度目の心臓発作もしくは前兆があった可能性が高く、本人は死の予兆めいた言葉を片男波部屋の女将に残していました。