後世に汚名を残した「称徳天皇」の死に際とは?
この記事では称徳天皇の晩年と死に際について解説していきます。
「称徳天皇」とは?簡単に説明
第48代天皇であり、重祚する前の第46代天皇である「孝謙天皇」その人です。
古代では珍しくないともいえる女系の天皇として有名。
女性天皇はその後浅井3姉妹の「お江の方」の血筋、母親が「徳川和子」の「明正天皇」まで歴史に登場しない事もあり、彼女の存在は良く知られたものになっています。
父は「聖武天皇」母は「光明皇后」。
この時代の女性天皇は即位したら子は作れないため、実子は不在。
「道鏡」との下世話な話が後年に伝わる不名誉話があるもの真偽は不明です。
「称徳天皇」の晩年
765年に第47代「淳仁天皇」が崩御していますが、表向きの事で暗殺説が有力視されています。
この発端は太上天皇であった孝謙と道鏡の痴情関係によるものでした。
床に伏せた彼女を道鏡が献身的に看病した事から寵愛がはじまり、次第に道鏡は権力を手にする事になります。
これに異を唱えた淳仁天皇とそのバックにいる藤原仲麻呂でしたが、闘争に敗れて共に失脚。
これにより孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡とのタッグで政を行っています。
そしてその政は恐怖政治と言ってもいいほど。
道鏡が日本三大悪人に数えられる所為ともなりました。
「称徳天皇」の死に様
770年8月28日、平城宮西宮寝殿にて逝去。
死因は天然痘によるものだとされます。
53歳没。
「称徳天皇」の死に様の信憑性
この時に西宮寝殿に近づけた女官は「吉備由利」だけでした。
『続日本紀』29巻に記されている通りに寵愛していた道鏡すら立ち寄らせていません。
人の出入りの制限される当時の病気の典型的なものは天然痘であるため、この信憑性については高いと言えるでしょう。
後年にはこの時の病に関して破廉恥で下世話な話が幾つか登場していますが、こちらには信憑性はないと言っていいでしょう。
山芋に関する下世話な話も妖怪が登場する話も後年の創作話で反称徳天皇勢力が流布したとされます。
まとめ
770年8月28日、平城京西宮寝殿で逝去。
死因は天然痘によるものだと言われています。
53歳没。
770年に入り体調を崩すと寵愛していた道鏡すら寄せ付けずに寝殿に籠もる事になりました。
そしてその取り次ぎは一人の女官・吉備由利だけだったとされます。
この隔離状態だけでも天然痘ならびに重篤な病である事がわかるでしょう。
一方で続日本紀をはじめた古典には下世話なネタ話が残されています。
破廉恥な話なので敢えて書きませんが当然信憑性はありません。
多くが後年反・称徳勢力によって創作された話だと言っていいでしょう。