歌う時間をください、もう一度命を燃やすために「上月晃」の死に際とは?
この記事では「上月晃」の晩年と死に際について解説していきます。
「上月晃」とは?簡単に説明
今も現役を続ける「古城都」氏と同期で月組に所属、愛称は「ゴンちゃん」。
月組でキャリアを積んだのち星組でトップスターとして活躍しています。
歌唱力と演技力の高さは言うまでもないところでしょう。
1970年に宝塚と東京で1ヶ月ずつさよなら公演を開催。
東京での千秋楽は10月28日、この日は水曜日で平日だったもの、都内の花をファンで買い占め、花屋さんから花が消えた伝説は有名な話。
宝塚退団後はテレビドラマで活躍、3年間フランス・パリのフォリー・ベルジェール劇場でワンマンショーを東洋人初開催しています。
「上月晃」の晩年
『ラ・マンチャの男』のアルドンサ役は当たり役となりましたが、90年代前半は公演自体がなく、95年からは星組のトップスターの後輩「鳳蘭」氏が演じる事になりました。
一方で『屋根裏のヴァイオリン弾き』のゴールデ役からは一度離れたもの、94年の「西田敏行」版から復帰。
隔年事にゴールデを演じています。
最晩年の97年には『42nd Street』でまたも星組のトップスターの後輩である「涼風真世」氏と共演。
涼風・ペギーと上月・ドロシーの配役に宝塚ファンは感涙した事でしょう。
実際このドロシー役は高評価を得ています。
しかしこの時既に彼女は病に冒されていました。
「上月晃」の死に様
1999年3月25日4時30分、東京都中央区の聖路加国際大学病院で逝去。
死因は大腸癌であると公表されています。
「上月晃」の死に様の信憑性
熊本県山鹿市を代表する人物であり、度々故郷を訪れてチャリティ・リサイタルも開催しています。
郷土の生んだスターとして知られ、彼女に関する資料も残されているため、そこから晩年の闘病生活もある程度は読み取る事ができるでしょう。
最初に病気を患ったのは98年2月の事でした。
彼女は手術を選択していますが仕事は休養することはありませんでした。
即仕事に復帰、3月には早くも舞台『マイ・ブルー・ヘブン』に出演。
以降も仕事に穴を開けず奮戦しており、年内の仕事は全てこなしたそうです。
『屋根裏のヴァイオリン弾き』が終わった後10月に再手術を行いました。
なおも仕事への執念を見せて、輸血をしながら年末のディナーショーを無事終わらせています。
但し99年に入ると体調は悪化の一途。
舞台への執念を燃やしていた彼女が4月の『42nd street』への出演を見送る事を発表した事から体調の深刻さは感じ取れるはずです。
まとめ
1999年3月25日4時30分、東京都中央区の聖路加国際病院で永眠する事になりました。
58歳没。
死因は当初公表されていた腸閉塞ではなく大腸癌だった事が明らかにされています。
晩年は自身の当たり役だった『ラ・マンチャの男』にアルドンサ役に区切りをつけると『屋根裏のバイオリン弾き』のゴールデが代表的な役になりました。
『42nd street』のドロシー役の再演が決まっており、新たなハマリ役になると思われました。
しかしドロシーを演じる事無く降板。
発表から間もなくして亡くなっています。