「関ケ原の戦い」や「大阪の陣」で活躍した戦国武将「明石全登」。
キリシタンとしても有名な彼はいったいどのような最期を遂げたのでしょうか?
この記事では、「明石全登」と彼の最期について解説していきます。
「明石全登(あかし ぜんとう)」とは?簡単に説明
「明石全登」とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて存在した備前国(現在の岡山県)の戦国武将であり、キリシタンとしても有名です。
名前に関しては、「明石全登」で広く知られていますが、「たけのり」・「かげもり」・「もりしげ」など複数の諱(いみな)も伝わっています。
「全登」は「じゅすと」と読む説もあるほか、通称で明石掃部(あかし かもん)とも言うそうです。
生年に関する確かな史料は存在しませんが、備前国保木城主の「明石行雄(あかし ゆきかつ)」、もしくは「明石景親(あかし かげちか)」の子として生まれます。
もともと仕えていた浦上氏が滅亡したことに際し、宇喜多家に帰属することになります。
その後、宇喜多家内でのお家騒動(宇喜多騒動)を経て、「明石全登」が宇喜多家中を取り仕切ることになりました。
関ケ原の戦いと大阪の陣
慶長5年(1600年)に、「徳川家康」に対して「石田三成」が挙兵します。
「明石全登」は主君の「宇喜多秀家」に従い、石田方の西軍として参戦し、「伏見城の戦い」や「抗瀬川の戦い」に勝利するなど活躍します。
「関ケ原の戦い」では、先鋒として宇喜多勢8000名を率い、東軍武将の「福島正則」相手に善戦しますが、西軍武将「小早川秀秋」の裏切りにより西軍は敗北します。
その後、宇喜多氏は没落し、「明石全登」は浪人となります。
この時期の彼の消息については、明石一族にゆかりのある「黒田如水」に庇護されていたとする説をはじめ、諸説あるようです。
慶長19年(1614年)に徳川方と豊臣方のあいだで「大阪冬の陣」が起こると、「明石全登」は豊臣方として参戦します。
翌慶長20年(1615年)の「大阪夏の陣」では、「道明寺の戦い」、「天王寺・岡山の戦い」に参戦します。
「明石全登」の最期
「明石全登」は「大阪夏の陣」の「天王寺・岡山の戦い」にて決死隊を率い、家康本陣への突入を試みます。
しかし、突入前に友軍部隊が壊滅したため、そのまま徳川勢の包囲網をかいくぐって戦線を離脱しました。
その後の消息については定かになっていません。
徳川方の家伝をはじめ、複数の史料では「明石全登」は討ち取られたとする記述がなされ、戦死説につながっています。
しかし一方で、落ちのびたとする伝承も多く、「九州」に逃れた説や、「明石全登」がキリシタンであったことから「南蛮」に逃れた説が挙げられています。
「明石全登」の死に様の信憑性
イエズス会文書などに明石全登の消息は記録がないため、「南蛮」に逃れた説は架空の可能性が高いと思われます。 ですので、戦死説の方が信憑性は高いと思われます。
まとめ
「明石全登」とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて存在した備前国(現在の岡山県)の戦国武将です。
宇喜多家に仕え、「関ケ原の戦い」では西軍に、「大阪の陣」では豊臣方として参戦しました。
「大阪夏の陣」以降の「明石全登」の消息は不明となっており、最期については定かとなっていません。
「大阪夏の陣」にて戦死したとする説や、落ちのびて「九州」や「南蛮」に逃れたとする説が挙げられています。