「平塚らいてう」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「平塚らいてう」の死に際とは?日本の人物

「平塚らいてう(ひらつからいてう)」とは?

平塚らいてうの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「平塚らいてう」とは?簡単に説明

『青鞜』発刊の辞「元始女性は太陽であった」で有名な女性解放運動の先駆者・平塚らいてう。

1886年(明治19年)生まれの思想家、評論家、作家で本名は平塚明(はる)。

特に大正から昭和にかけて婦人参政権など女性の権利獲得のために奔走した代表的な女性の一人です。

『青鞜』が無期休刊になってしまった後も、市川房枝らとともに日本初の女性運動団体「新婦人協会」の結成に尽力しています。



「平塚らいてう」の晩年

らいてう達活動家の奔走も、その実現に至るのは第二次世界大戦後の連合国軍GHQ主導による日本の戦後改革での実現まで待つ必要がありました。

しかし、女性の権利獲得が実現していくと、らいてうの晩年は反戦・平和運動に主軸を移していくことになります。

具体的には水爆の製造実験の禁止を訴えたり、ベトナム戦争への反戦運動を精力的に行なっていました。

ただ、静謐な晩年を送ったとのことから、若い頃から大好きだったビールを嗜みながら自伝の制作に着手する穏やかな晩年だったようです。

なお、自伝には22歳の時に起こした森田草平との心中未遂事件(塩原事件)で世間を騒がしたことや奥村博史との事実婚で子供を出産し、「母性」の国家による保護の主張に繋がっていくことなどを赤裸々に語っています。



「平塚らいてう」の死に様

らいてうは自伝の制作に取り掛かりますが、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道がんを患って、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院します。

入院後もらいてうは口述筆記で自伝の執筆を続けますが未完のまま、1971年(昭和46年)5月24日午後10時36分に逝去します。

享年86。

「平塚らいてう」の死に様の信憑性

命日である5月24日は「らいてう忌」となっています。

また、亡くなったのも病院であることから死に様の信憑性は非常に高いと言えます。

まとめ

「新しい女」という呼ばれ方で、従来の女性の理想像である「良妻賢母」を否定する立場を取り、女性の権利獲得に奔走した平塚らいてう。

ビールをこよなく愛し、ビアホールに行っては男達に混ざってビールを飲んでいたと言われるらいてうは一見、男性をも恐れない女傑のような女性を想像しますが、13歳まで同居していた孫の話によると、肉親から見た姿は意外で、身長は145cmと当時としても小柄であり、内向的な性格で声は小さく口数も少ない人だったようです。

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