この記事では、「森田必勝」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「森田必勝」とは?
森田必勝とは三重県出身の政治活動家で、三島由紀夫が結成した楯の会のメンバーでした。
高校生の頃から、日本一の政治家になるという夢を抱いていたといいます。
浪人生活を送った後、早稲田大学に入学します。
斉藤英俊と知り合い、防衛問題を研究する早大国防部を結成しました。
そして、全日本国防会議議長となり、楯の会に入会します。
楯の会は民間の防衛組織です。
「森田必勝」の晩年
森田必勝は楯の会で、三島由紀夫から最も信頼されていたといわれています。
楯の会の学生長も務めました。
三島由紀夫は楯の会の幹部クラス数名を集め決死隊を編成しますが、森田必勝もその1人です。
森田は三島に、楯の会と自衛隊で国会を包囲して憲法を改正させたらどうかと提案しています。
その提案は実現が難しいとして、受け入れられませんでした。
しかし、三島と決起計画について話し合うようになります。
当初は自衛隊と楯の会が武装蜂起して憲法改正を訴えるという方針でしたが、自衛隊に失望し自分達だけで行動を起こそうと決意します。
そして、1970年11月25日に三島由紀夫は、自衛隊にクーデターを呼びかける事件を起こしたのです。
「森田必勝」の死に様
決起の日、三島由紀夫は森田必勝ら楯の会のメンバーを連れ市ヶ谷にある陸上自衛隊を訪れます。
そして、総監である益田兼利を人質にし、自衛隊員の前でクーデターを呼びかける演説を行いました。
その様子を森田は後ろから眺めていたといいます。
そして、三島は自決するのですが、介錯を務めたのが森田でした。
しかし、尊敬する三島を前に躊躇いがあったためか上手く行かず、楯の会のメンバーである古賀が介錯しました。
森田はその後、切腹し古賀が介錯を行っています。
享年25でした。
「森田必勝」の死に様の信憑性
森田必勝は事件を起こす前から、三島と共に自決することを決意していました。
三島は森田には思いとどまるように諭しましたが、森田は三島と共に死ぬことを選んだのです。
辞世の句を残しており、覚悟の上の自決だったと思われます。
まとめ
森田必勝は、三島由紀夫に出会い楯の会に入会します。
三島由紀夫に心酔し、三島と共に憲法改正を訴える政治活動に熱心でした。
そして、陸上自衛隊の総監を人質にとって自衛隊員にクーデターを呼びかけるという事件に関わり、三島と共に自決しました。
享年25です。