「大正天皇」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大正天皇」の死に際とは?日本の人物

大正天皇の死因とは?

「大正天皇」とは?簡単に説明

明治12年に明治天皇の三番目の皇男子として誕生した大正天皇こと明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)は、日本の第123代目の天皇陛下でした。

明治天皇の実子である13名の内、成人することができた5名の中のひとりでしたが、生誕してからは病弱な身体で何べんも大病に罹っています。

幼年期には学習院の初等科に途中入学するものの、発達が遅れていたという理由から中等科の1年次で中途退学しています。

その後、11歳の時に皇太子となり、九条節子と婚姻を結んで、後の昭和天皇となる裕仁(ひろひと)をはじめとする4人の皇男子が誕生しています。

明治45年に実父である明治天皇の崩御に伴って、第123代天皇に即位した大正天皇でしたが、即位式を迎えたころから体調を崩し、大正10年ごろから療養生活に入っていきます。

しかしながらその後も体調は回復せず、大正15年にわずか47歳で死亡しています。



「大正天皇」の晩年

大正2年に肺炎を患ったことで重体に陥ってしまった大正天皇は病状が回復し復帰するまでに約1ヶ月間という期間を要することになります。

その翌年には日本が第一次世界大戦に参戦したことで、公私ともに多忙を極め始めた大正天皇は、心身ともに少しずつ疲弊していき、このころから公務を休みがちになります。

大正8年には公務での勅語などを音読することさえ難しくなってきており、そのため政府は大正天皇の病状を公表せざるを得なくなります。

また、第一次世界大戦が終了し戦勝国となった日本は、国内外において大局的な政治判断を求められることが多くなってきていたため、当時の大正天皇には荷が重いと判断した天皇家は、当時若干20歳であった皇太子の裕仁親王を摂政に任命しています。

これにより大正天皇は政務から離れることになり、その後も復帰することはありませんでした。



「大正天皇」の死に様

大正14年に重度の脳貧血を発症したことで、4ヶ月もの長きに渡って寝たきり状態となっていた大正天皇は、一時は歩行困難な状態に陥ってしまい、さらに翌年の5月に再び脳貧血の発作をおこしたことにより再度病床に就くことになります。

そして言語障害や記憶障害などを併発し始め、気管支炎までも発症してしまった大正天皇は、かねてからの歩行困難が悪化していたことにより動くことさえままならず食欲も減退していきます。

そしてついに大正15年12月25日、最後は心臓発作を起こし47歳で崩御してしまうのでした。

「大正天皇」の死に様の信憑性

大正9年3月、大正天皇の体調が悪化していることが初めて宮内省から公表されましたが、言語障害や身体が傾斜しているなどといった本当の病状については伏せられたままでした。

しかしながら大正10年になると意思の疎通さえできない状態に陥ってしまうこともあり、沼津や葉山などに長期滞在して療養に専念する機会が増えていきました。

そして少しずつ公務から離れて行った大正天皇は、大正14年にトイレで脳貧血を起こして倒れてしまい、翌年にはほとんど歩行をすることが困難な状態にまで陥ってしまいます。

歩行ができない状態のため、車いすのまま葉山御用邸へ移住した大正天皇でしたが、同年の12月ごろには高熱が続いたことにより呼吸困難に陥り、天皇危篤との報が流れ始めます。

そして最後は、皇后陛下や皇太子夫妻、皇族などが見守る中、肺炎が悪化したことによる心臓麻痺で崩御されたのでした。

まとめ

明治と昭和に挟まれたほんの15年間におよぶ大正時代を生き抜いた大正天皇は、激動する世界史の中で翻弄され続けた人物と言えるかもしれません。

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