「千利休(せんのりきゅう)」とは?
千利休の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「千利休」とは?簡単に説明
信長、秀吉という2人の天下人に仕え、わび茶の完成者であり、茶道千家流の祖となった千利休。
号は宗易。
今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称され、茶聖とも言われています。
茶道を通して多くの大名に影響力を持つようになっていくことからやがて秀吉と対立し、切腹へと至ります。
「千利休」の晩年
利休と秀吉の友好関係は1587年(天正15年)10月1日に秀吉によって催された「北野大茶湯」の頃をピークに悪化していきます。
秀吉は貿易で潤う堺に重税をかけるなどして利休らに圧力を加え始め、利休の愛弟子である山上宗二を処刑したり、黄金の茶室を作るなど茶の湯に対する思想的対立も深まっていきます。
1591年(天正19年)1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りつつ利休は黒楽茶碗で茶をたてたことで秀吉のメンツをつぶします。
さらに2人の関係が完全に崩壊するきっかけが1月22日の秀吉の弟・秀長の死でした。
利休の後ろ盾であった秀長が亡くなったことで2人の間で危うく保たれていた緊張状態が一気に崩れるのでした。
「千利休」の死に様
突然秀吉の逆鱗に触れた千利休は1591年(天正19年)2月23日に堺に蟄居を命じられます。
それから2週間後、大坂城にいた秀吉から切腹命令が届き、利休は切腹して果てます。
1591年(天正19年)2月28日のことです。
罪を問われたのは、京都大徳寺山門の私費による修復の際に、山門の上に利休の木像を設置したことでした。
大徳寺の山門は秀吉もくぐるため、秀吉を上から見下ろすようで無礼だという言いがかりのような理由でした。
その後、多くの人が助命のため奔走しますが、利休は秀吉への謝罪を拒否します。
怒った秀吉は2月25日、山門の利休像を引きずり降ろして磔にすると、翌26日には利休を堺から京都に呼び戻します。
そして28日に利休のもとに秀吉の使者が遣わされます。
この日は朝から雷鳴が轟く荒れた天候でした。
使者からの伝言は「切腹せよ」でした。
利休は逆らうことなく、静かに切腹して果てます。
享年69歳。
「千利休」の死に様の信憑性
利休の首は京都一条戻橋のたもとに磔にされた木造の下に晒されていますので、利休の切腹は史実通りでしょう。
利休の死に様は概ね伝わっている通りのものだと推測されますが、謎とされているのは切腹を命じられた本当の理由です。
表向きの理由として広く伝わっているのは上述した大徳寺山門の利休像の事件ですが、その他にもいろいろな説があります。
代表的な説としては、「娘を秀吉の側室に出すのを拒否したこと」「茶道に対する考え方が対立したこと」「豊臣政権における利休の影響力の排除」「利休の財力や権威を秀吉が恐れたこと」「家康の間者として秀吉を毒殺しようと図ったこと」などがあります。
面白い説ではありますが信憑性は低そうです。
まとめ
秀吉が利休に切腹を命じたとき、利休が命乞いをすれば助けてもよいと考えていた節があります。
しかし、頑として命乞いを拒否し、天下人である秀吉に一歩もひかない利休が目障りでもあり恐怖でもあったのかもしれません。
最も頼りになる人ほど自分にとって最も怖い存在でもあるということでしょうか。