「東海林太郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「東海林太郎」の死に際とは?日本の人物

戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手の東海林太郎(しょうじたろう)は、73歳で亡くなっています。

今回は、独特なロイド眼鏡の姿が印象的な彼の死因に迫ります。

「東海林太郎」とは?簡単に説明

明治31年に秋田県秋田市で生まれた東海林太郎は、昭和期の始めに活躍した流行歌手で、まん丸のロイド眼鏡と洋装の礼服である燕尾服(えんびふく)を身にまとい、直立不動の姿勢で歌う独特の姿が人気を集めていました。

昭和8年、35歳の時にプロの歌い手としてキングレコードの前身であるレコード会社と専属契約を結んだ東海林は、「赤城の子守唄」「国境の町」などのヒット曲を続けてリリースし、順調にキャリアを重ねていました。

しかしながら戦後、軍国主義に繋がるような歌や曲などが禁止されてしまい、東海林の勢いも戦前とは比較にならないほど落ち込みますが、その後も地方公演などを中心に活動を続けていきます。

晩年はなつかしの歌声ブームなどで再び脚光を浴びた東海林でしたが、昭和47年10月、脳内出血により73歳で亡くなっています。



「東海林太郎」の死に様

昭和47年10月4日、東海林太郎は入院していた立川中央病院にて脳内出血により73歳で他界しています。

死亡する1週間ほど前、立川市内にある知人宅に滞在していた東海林は、普段よりも調子が悪そうな歩き方をしていたため、その場に居合わせていたマネージャーから体調を問われるものの、「心配ない、眠たいだけだよ」と返答してベッドに横になり、そのまま程なく意識不明の重体に陥ってしまいます。

翌日緊急入院した東海林は、その後1週間ほど生死の淵をさまよい、最期は次男と妹の手を握ったまま亡くなっています。



「東海林太郎」の死に様の信憑性

昭和23年、東海林太郎は49歳の時に直腸がんを罹患し、最初の手術を行っています。

その後、昭和44年までの合計21年間に渡って、合計4度もの手術を行い、最終的には直腸をすべて摘出(てきしゅつ)して、人工肛門を造設しています。

手術に臨む度に周囲からは再起不能(さいきふのう)と言われ、休養を勧められていた東海林でしたが、手術が成功する度に歌手として現場に復帰していました。

晩年は舞台に上がる前に衣装をきつく腹に巻き付け、投薬による副作用で変わってしまった顔の色を隠すために化粧を施し、元気な頃と同じ姿でステージに上がり続けました。

次々と自身に襲い掛かる病魔と闘いながら、最期まで現役の歌い手として生き続けることを選んだ彼の葬儀は、史上初めてとなる音楽葬となりました。

「東海林太郎」の小ネタ等

東海林太郎は、昭和40年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)、昭和44年には勲四等旭日小綬章(くんよんとうきょくじつしょうじゅしょう)をそれぞれ受章し、いずれも歌手として得た初めての栄誉として記録されています。

まとめ

昭和期を代表する流行歌手の東海林太郎は73歳で亡くなっています。

トレードマークの燕尾服やロイド眼鏡に加え、独特な直立不動の姿勢で数々の歌を世に送り出した彼のスタイルは、現在においても数多くの音楽関係者たちの間で語り継がれています。

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