今日も決め手の銭が飛ぶ!銭形平次こと「大川橋蔵」の散り際とは?
この記事では大川橋蔵の晩年と散り際について解説します。
「大川橋蔵」とは?簡単に説明
「大川橋蔵」は歌舞伎界における由緒ある名跡です。
しかしその知名度は「小野富成」氏が引き継いだ二代目「大川橋蔵」が圧倒的だと言っていいでしょう。
歌舞伎界、映画界での活躍はもとより、フジテレビでの『銭形平次』は最大の当たり役となりました。
彼の演ずる平次は甘いマスクとともに、時として超人的な動きを見せ、歌舞伎の荒事芸に通じ人気を呼んでいます。
平次=橋蔵ではなく、大川橋蔵=平次とイメージが定着することに悩んだり、視聴率低下で紆余曲折が晩年はあったもの18年間演じ続けました。
「大川橋蔵」の晩年
長寿番組ならではのマンネリ化に加え、70年代はホームドラマのTBSとも言われるようにジャンルとして時代劇が衰退し始めていた時期でもありました。
それでも悪くても二桁視聴率をキープ。
しかし80年代に突入すると急激に視聴率は低下し、打ち切りは避けられない状態になりました。
なんとか84年4月の888回の区切りの放送まで、番組は延長し大団円を迎えています。
終了後は新境地、現代劇やホームドラマへの登場がおおいに期待され、自身も銭形平次終了感謝パーティーにて、平次親分のイメージを払拭する決意を明らかにしていました。
しかし既に病がその身体を蝕んでいたのです。
「大川橋蔵」の死に様
1984年12月7日午前1時29分永眠。
55歳没。
死因は急性肝不全によるものでした。
前年の秋、『銭形平次』の最終回について論議がされているさなか、体調を崩しています。
その体調不良は結腸がんによるものでしたが、本人には告知されることはありませんでした。
「大川橋蔵」の死に様の信憑性
前年の秋から体調不良を訴えていたものの本格的に悪化したのは84年春からです。
4月初めに腹痛を訴え、5月8日に聖路加病院へ入院。
しかしこの時はスポーツ新聞では「平次親分が急性肝炎で入院」と報道されたため、生死に関わる重病だと思った人はいなかったことでしょう。
しかしその後は入退院を繰り返すことになりました。
告知されることはなかったもの、本人も自身の病が大病であることに気付いていたようです。
摂生、体調管理を続けてきたのに大病を患ったことに悲痛な叫びを上げたとされます。
そしてその死は突然のものだったのは間違いないでしょう。
前日の6日は特段体調が悪いわけではなく、面会謝絶でもありませんでした。
面会客と歓談を楽しめるほどの体調でした。
まとめ
「大川橋蔵」は84年12月7日午前1時29分に永眠しています。
55歳没。
死因は急性肝不全でした。
原発となったのは結腸がんであり、それが転移性肝臓がんに繋がりました。
急死だったのは間違いありません。
前日6日は面会謝絶の状態でもなく、数時間前には見舞客と歓談をする程度には体調はよかったとされます。
当たり役となり、18年間演じ続けた『銭形平次』放送終了からわずか8か月後の逝去となりました。