この記事では、沢田教一の晩年や最期について紹介します。
沢田教一とは?
沢田教一とは日本を代表するフォトジャーナリストで、戦場に赴き戦争の生々しい惨状を発信し続けました。
ベトナム戦争の折にロクチュン村で撮影した「安全への逃避」は、世界報道写真大賞やピューリッツァー賞、アメリカ海外記者クラブ賞など数々の賞を受賞しています。
戦火にのまれた村から逃げるため、親子が首まで河につかりながら必死に逃げようとする写真です。
この写真により、沢田教一の名前は国際的に広く知られるようになりました。
沢田教一の晩年
沢田教一がベトナムに渡り、報道写真を撮り始めたのは1965年のことです。
この頃ベトナムは、ベトナム戦争が全面的な戦争に発展した頃でした。
ベトナムでの取材活動はすべて自費です。
1966年に代表作となる「安全への逃避」がピューリッツァー賞を受賞しますが、沢田はその後もベトナムを取材し続けました。
米兵が塹壕からベトナムの兵士を引きずり出し連行する様子を写した「敵を連れて」や米軍の輸送車がベトナム兵の死体を引きずっている「泥まみれ」などを撮影しています。
これらの写真もハーグ世界報道写真展で1位と2位を獲得するなど、国際的にも高く評価されました。
その後は香港支局の本部長となりベトナムを離れますが、1970年には再びサイゴン特派員として最前線に赴きます。
沢田教一の死に様
沢田教一は再び戦場に戻り、フォトジャーナリストとしての活動を続けていました。
1970年10月28に襲撃を受けてしまいます。
身につけていたカメラや時計は盗まれていました。
沢田はライカのカメラを愛用しており、ライカをずっと使い続けていたといいます。
襲撃を受け、沢田は亡くなりました。
まだ34歳という若さで命を落としたのです。
沢田教一の死に様の信憑性
沢田教一は襲撃を受けた時、防弾チョッキやヘルメット等は身に着けていなかったといいます。
取材には欠かせないものなので、戦場で活躍してきたフォトジャーナリストとしては不可解な部分もあります。
なぜ襲われたのかははっきりしませんが、金品が奪われていることから強盗目的だったとも考えられています。
沢田には死後、旭日章が贈られました。
まとめ
沢田教一は晩年もフォトジャーナリストとして戦場で活動していましたが。
しかし、その取材中に襲撃を受け、亡くなります。
享年34という若さでした。