奥州の覇者としてその名を轟かせた伊達政宗ですが、その晩年は仙台藩の安定に力を注いでいたといわれています。
波乱万丈の人生を送った伊達政宗が、どのような最期を迎えたのかを紹介します。
伊達政宗とは?
伊達政宗は仙台藩の初代藩主で、東北地方の繁栄の礎を築いた戦国武将の一人です。
1987年に放送されたNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」のモデルとしても知られており、現在でも人気があります。
幼少期に疱瘡を患ったために、右目を失い隻眼となりました。
伊達政宗の晩年
伊達政宗は19歳で伊達家の家督を継いで以降、次々と周辺諸国を併合し奥州で勢力を拡大していきました。
若い頃は戦に明け暮れる生活でしたが、徳川家の時代が来て平和な世の中がやってくると優れた為政者として手腕を発揮します。
運河を整備したり、農政改革に取り組むなど仙台藩を豊かにすることに取り組みました。
また、徳川幕府の重鎮でもあり、第二代将軍の徳川秀忠や大三代将軍の徳川家光にも仕えています。
伊達政宗の死に様
伊達政宗は、病気で亡くなったとされます。
寛永13年5月24日のことで、享年70歳でした。
その数年前から体調が優れないことが多く、食事が満足に取れないといった状態だったようです。
死因は食道がんと癌性腹膜炎の合併症と考えられています。
亡くなる数日前に徳川家光が伊達家を訪れ政宗を見舞っていますが、その姿に驚いて社寺に病気の平癒を祈らせたという逸話も残っています。
そのため政宗は、周囲の人が一目見て分かる程やせ衰えていたのでしょう。
伊達政宗が亡くなったのは、江戸にある伊達家の屋敷です。
ここには正室である愛姫もいましたが、政宗は臨終の際に愛姫に会おうとしませんでした。
決して夫婦仲が悪かったというのではなく、政宗なりの死に対する美学があったからです。
男気があって魅力的な伊達男そのままに、死に際は妻子に見せないことを良しとしました。
愛姫は何度も見舞いに行きたいと申し出ましたが、それを拒んだといいます。
伊達政宗の死に様の信憑性
伊達政宗の晩年や死に様に関しては様々な史料が残されているので、病死であったことは間違いありません。
史料の1つには腹部に水が溜まっていたという記載があるので、癌性腹膜炎が考えられます。
食欲不振や嚥下困難といった症状も出ており、食道がんとも合致しています。
食道がんと癌性腹膜炎は併発することが多い病気です。
戦に明け暮れていた戦国武将ということを考えると、病気で亡くなったというのはちょっと意外な気もします。
まとめ
日本を代表する戦国武将・伊達政宗は、江戸にある屋敷で生涯を終えます。
食道がんと癌性腹膜炎を患っていたと考えられており、かなり衰弱した状態だったようです。
伊達政宗は伊達男の名に相応しく、死に目は妻子に見せないことを美学とし、それを貫き通しました。
妻である愛姫の見舞いの申し出も拒み、静かに息を引き取ったといわれています。