「寛仁親王」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「寛仁親王」の死に際とは?日本の人物

人生の1/3を癌との闘病に充てた「寛仁親王」の死に際とは?

この記事では寛仁親王の晩年と死に際について解説していきます。

「寛仁親王」とは?簡単に説明

『皇族のスポークスマン』『髭の殿下』としてその名を知られていました。

またアルコール依存症に罹患した事や20年以上に渡る癌との闘病生活を赤裸々に話すなど人間味を感じさせる皇族との印象を持たれた方も多いのではないでしょうか。

自身で非行少年ぶりをアピール、癌の公表が一般的ではない80年代に自身で病を発表。

下ネタに加え、アルコール依存症に罹患していた事実を公表するなどその異端ぶりを示すエピソードは数しれません。

その異端ゆえに寛仁親王家は一族で孤立していたとも言われるほどでした。



「寛仁親王」の晩年

年齢を重ねても自由奔放な発言は控えられる事はなく、2007年にはアルコール依存症を公表した後に講演会の挨拶で「アルコール依存症の寛仁親王です」と自ら話題を切り出しています。

もっともその理由の1つに家庭内の問題を挙げていましたが、それは事実の様でした。

没後3年後に長女である「彬子」女王が手記を『文藝春秋』に寄稿。

夫婦間の確執に加え、母・娘間の確執が明らかにされています。

その一方で95年から10年程度鳴りを潜めていた癌が動き始めました。

今度は食道ではなく咽頭部への発症。

以降亡くなるまで癌との闘病が続きますが、加齢も手伝ってか不整脈など新たな病も発症。

苦難の日々が続く事になりました。



「寛仁親王」の死に様

2012年6月6日15時35分、東京都千代田区の佐々木研究所付属杏雲堂病院で薨去。

66歳没。

死因は多臓器不全によるものでした。

「寛仁親王」の死に様の信憑性

皇族かつ親王の身位を持った人物だけに危険な状態に陥った際には逐一時会見が行われており、死に様の信憑性については極めて高いと言えるでしょう。

6月5日夜の会見では前日と本日の意識レベルの差の明白な低下があった事を「名川弘一」皇室医務主管が説明。

これにより危険な状態に陥りつつある事を明らかにしています。

腎臓の機能低下により、10数時間に渡り尿が出ない事や肺が白くなり大部分で肺炎の症状が現れている事を告げています。

肝臓については機能低下だけで詳細は伏せられているもの死因を裏付けるように主な臓器の不調はこの時点で知られる事となりました。

その後の10数時間についての経過は明らかにされず、翌6日15時35分に薨去の発表がされています。

2012年になってからは1月早々から体調を崩しており、咽喉癌の再発が明らかになりました。

腫瘍摘出とリンパ節の郭清も行ったもの6月に喉から出血。

まとめ

2012年6月6日15時35分、東京都千代田区の佐々木研究所付属杏雲堂病院で薨去。

66歳没。

死因は多臓器不全によるものでした。

2012年は正月早々から再発した咽頭癌との闘いが始まると、腫瘍摘出、リンパ節の郭清にも関わらず6月1日に喉から出血。

腎臓、肝臓の機能低下に加え、肺炎を発症し同月5日の夜に危険な状態である事が会見で明かされていました。

その10数時間後に力尽き、薨去が発表されています。

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