「山本権兵衛」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「山本権兵衛」の死に際とは?日本の人物

山本権兵衛は日本の海軍軍人で、内閣総理大臣を務めたこともあります。

山本権兵衛の晩年と最後について紹介します。

山本権兵衛とは?

山本権兵衛とは薩摩藩士の息子として生まれ、薩英戦争や戊辰戦争などの戦いに従軍しました。

明治維新後は海軍の兵学校に入学し、卒業すると海軍省主事や軍務局長などを歴任します。

そして、山形有朋内閣の時に海軍大臣となります。

日露戦争が始まりますが、終結するまでの間海軍のトップの地位にありました。

開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊の司令長官に任命しています。

東郷が日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破り国民的な英雄となったのは周知の事実で、その功績により山本も海軍大将に昇進しました。

山本権兵衛の晩年

山本権兵衛は、その生涯で二度内閣総理大臣となっています。

最初は1913年で、同じ薩摩藩の出身で元老となっていた大山巌の支持を受けて、内閣総理大臣に就任することになりました。

政友会を与党とする政権で1年2か月ほど続きましたが、シーメンス事件が起きて総辞職することになります。

シーメンス事件とは、ドイツのシーメンスという兵器を製造する企業による海軍の汚職事件です。

シーメンス事件を発端に、イギリスのビッカース社からも三井物産を介して贈賄が行われていたことが明らかとなりました。

その問題が大きく取り上げられると、内閣は総辞職に追い込まれます。

それから二度目に内閣総理大臣に就任したのは、1923年のことでした。

関東大震災の混乱の中にあった頃で、首相であった加藤友三郎が急死したことで山本に白羽の矢が立ったののです。

山本は1923年9月2日に内閣総理大臣に就任します。

関東大震災からの復興に尽力しましたが、政権は長くは続きませんでした。

その年の12月27日に起きた虎ノ門事件の責任を取り、山本は辞表を提出したのです。

虎ノ門事件とは、当時の皇太子(後の昭和天皇)虎ノ門外で無政府主義者から狙撃された暗殺未遂事件です。

非常にショッキングな事件で、暗殺未遂犯は逮捕され死刑判決を受けました。

そして、翌年の1924年1月7日に内閣は総辞職となります。

山本権兵衛の最期

山本権兵衛は、1933年の12月に81歳で亡くなりました。

前立腺肥大症を患っていたといいます。

妻の登喜子が亡くなった年に、後を追うように死去しています。

山本権兵衛にまつわる逸話

山本権兵衛は、非常に愛妻家だったといわれています。

妻の登喜子は貧しい家の生まれで、妓楼で遊女をしていました。

海軍のエリートだった山本からすると身分の違う相手ですが、山本は臆することなく結婚しています。

二人は6人の子どもにも恵まれ、晩年まで仲の良い夫婦だったといいいます。

まとめ

山本権兵衛は海軍軍人として活躍した後、二度内閣総理大臣となりました。

しかし、その政権は長くは続かず短命に終わっています。

私生活では夫人の登喜子と晩年まで仲睦まじく過ごし、81歳で亡くなりました。

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