お国の為にペンで戦うも不憫な顛末に「菊池寛」の死に際とは?
この記事では菊池寛の晩年と死に際について解説していきます。
「菊池寛」とは?簡単に説明
『文藝春秋』の生みの親であり、大正時代に人間の真理を説いた『屋上の狂人』やSMAP時代の「草なぎ剛」氏が主役の黒田役を演じた『父帰る』はあまりに有名でしょう。
その後戯曲から一転して書き上げた『真珠夫人』は当時のヒットもさながら現代の昼ドラ、メロドラマの流行の礎となりました。
また学友であった「芥川龍之介」氏の苗字を取った芥川賞友人の「直木三十五」氏からの直木賞、そして自身の苗字からなる菊池寛賞を制定。
業績を表彰する形で文学界のみならず文化の発展に寄与しました。
「菊池寛」の晩年
文士部隊として日中戦争下の満州へ従軍。
4個師団と中国兵35万人が対峙した揚子江作戦を視察しています。
以降も大陸各地を従軍して国威高揚の為にペンで尽力する事になりました。
帰国後には大映の社長に就任。
戦局の悪化のさなか『菊池千本槍 シドニー特別攻撃隊』などの原作を書き上げ戦意高揚の為の国策映画を作成しています。
しかし文士部隊と国策映画制作に携わった事で敗戦後に大きな代償を払う事になってしまいました。
それはGHQによる公職追放令でした。
元々は戦前は穏健派の社会主義で通していた菊池氏。
しかし国の為にペンを取った行動が糾弾された事に憤りを覚えたのは紛れもない事実だと言えるでしょう。
しかしこの行き場のない怒りは菊池氏の気力を急激に萎えさせていきました。
それは盟友の「横光利一」氏、文藝春秋社の起ち上げに携わった「鈴木氏亨」氏を立て続けに喪った事でより顕著になってしまいます。
「菊池寛」の死に様
1948年3月6日21時15分、東京都豊島区雑司が谷の自宅で逝去。
59歳没。
死因は狭心症によるものでした。
「菊池寛」の死に様の信憑性
公職追放への憤りは尽きる事はなかったでしょう。
怒りと同時に心労も抱える事になったのは明白です。
しかし公職追放前から新日本文学会による「文学における戦争責任の追及」のプロパガンダの筆頭として名指しで責任追及されるなど心労は耐える事がなかったのは容易に察する事ができるでしょう。
また加えて約30年来の友人であった横光氏、苦楽をともにした元文藝春秋社専務の鈴木氏を立て続けに喪った事も精神的に大きかったと言えるはずです。
48年2月に胃腸障害から寝込んでしまったのも、心労が重なっての事だと思われます。
まとめ
1948年3月6日21時15分、東京都豊島区雑司が谷の自宅二階で死亡。
59歳没。
死因は狭心症だったとされます。
言論統制によって傾国・国粋主義路線に舵を取らねばならず、終戦後にそれが糾弾された事が大きなストレスとなり、心臓にダメージを与えたのは間違いありません。
国の為に尽くしながらも、戦後は文壇における戦犯、戦争責任者と批判されたあげく、公職追放されたのは心に大きな憤りを生んだ事でしょう。
30年来の友人横光氏、苦難をともにした鈴木氏の立て続けの逝去は其れに拍車をかける形になったと見て間違いありません。
終戦後の各方面からの非難による心労の蓄積が寿命を縮める事になったと推測されます。