「津田梅子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「津田梅子」の死に際とは?日本の人物

日本の女子教育の発展に寄与した教育者の「津田梅子」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

「津田梅子」のおおまかな人生の流れを簡単に紹介して、その晩年・死に様について詳しく解説していきます。

「津田梅子」とは?簡単に説明

「津田梅子(つだうめこ,1864年~1929年)」とは、津田塾大学(旧女子英学塾)の創設者で、「日本の近代的な女子教育の啓発・普及」に大きな功績を残した人物・女性です。

津田梅子は旧幕臣の父親(津田仙)の次女として江戸で生まれましたが、明治4年(1871年)に「岩倉使節団」に同行するかたちで、わずか6歳でアメリカに渡りました。

二度目の留学(1889年~1892年)では、ブリンマー大学でノーベル賞学者のモーガンに生物学を学び、アリス・ベーコンの影響を受けて「女子教育」への関心を深めます。

帰国後の明治33年(1900年)に「女子英学塾」を創設、先進的な日本の女子教育を推し進めました。

「津田梅子」の晩年

「津田梅子」の晩年は、「女子英学塾(後の津田塾大学)」の開設のための過労とストレスのために、健康状態がかなり悪くなっていたと言われています。

「女子英学塾」は男女や身分の差別がない進歩的な女子教育を実践しましたが、「資金面・社会的な理解度の面」で相当な苦労をすることになりました。

特に独自の女子教育理念を維持するために、「外部からの資金援助」を少なめの金額に抑えたので、塾経営の財政状況が軌道に乗りにくかったのです。

明治36年(1903年)に「専門学校令」が出されたのに合わせ、梅子は申請をして塾を「社団法人」にしました。

この頃から梅子の体調は思わしくなかったのですが、塾の経営基盤が安定してきたのを確認してから、大正8年(1919年)1月に塾長を辞めました。

教育者としての実務・経営を離れた後の晩年は、鎌倉の別荘で長期間におよぶ静養と闘病の日々を送ることになりました。

「津田梅子」の死に様

「津田梅子」の死に様は、女子英学塾の創設段階の心労と疲労で衰弱して、長い闘病生活をした後に亡くなったというものです。

鎌倉にあった別荘での長期闘病もむなしく、昭和4年(1929年)8月16日に「脳出血」を起こして亡くなりました。

津田梅子は自身の信念によって、「生涯独身」のままでその人生の幕を閉じました。

梅子のお墓は、津田塾大学の構内に置かれています。

梅子が創設した「女子英学塾」は1933年に「津田英学塾」と改名しましたが、戦争で焼失しました。

現在の「津田塾大学」は、梅子が脳出血で死んだ後に、改名されて校舎も再建したものです。

「津田梅子」の死に様の信憑性

「津田梅子」は明治・大正・昭和期にかけて活躍した女性の教育者・津田塾大学の創設者であり、その死亡日の詳しい日にちも昭和4年(1929年)8月16日と分かっています。

女子英学塾の運営から遠ざかった後は鎌倉で長い闘病生活を送っていたことははっきりしているため、64歳で「脳出血」が原因で亡くなったことには信憑性があると言えるでしょう。

まとめ

「津田梅子」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「津田梅子」は女子英学塾の創設のための過労で体調を崩しがちになり、長い期間にわたって闘病していましたが、昭和4年(1929年)に「脳出血」が原因で死去しました。

「津田梅子」の死に様について詳しく知りたいときは、この記事の内容を参考にしてみてください。

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