この記事では、「久保田一竹」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「久保田一竹」とは?
久保田一竹とは、昭和から平成にかけて活躍した染色工芸家です。
20歳の時に東京国立博物館で「辻が花染め」の小裂に出会い、その美しさに魅了されます。
その失われた染色技法を再現することを目指し、手描友禅で生計を立てながら研究に没頭しました。
そして、「一竹辻が花」という独自の技法を発表し、注目を集めます。
装飾着物の展覧会を最初に開いたのは、60歳の時でした。
「久保田一竹」の晩年
久保田一竹は、国内外で展覧会を開催しています。
開催地には、アメリカやフランス、オランダ、ベルギー、ロシア、ドイツ、カザフスタンなどが挙げられます。
海外でも高く評価され、1990年にはフランスの芸術文化勲章シュヴァリエを受章しています。
国内でも1993年に文化庁から文化長官賞が贈られました。
それから久保田一竹は、ワシントンにあるスミソニアン博物館にも作品が展示されたことがあります。
久保田一竹はまだ存命でしたが、スミソニアン博物館で亡くなっていない芸術家の作品が展示されたのは初めてのことでした。
また、久保田一竹は1994年に、自ら久保田一竹美術館を建設しています。
山梨県の河口湖畔にある美術館で、人と自然と芸術が三位一体となっていることがコンセプトです。
本館はひばの大黒柱を使ったピラミッド型になっており、伝統的な職人技と現代の工法が融合しています。
「久保田一竹」の死に様
久保田一竹は、2003年に亡くなりました。
享年86です。
死因は多臓器不全で、山梨県内にある病院で亡くなっています。
多臓器不全とは、複数の臓器が機能しなくなることをいいます。
86歳という高齢であったことを考えると、老衰といえるでしょう。
「久保田一竹」の死に様の信憑性
久保田一竹の代表作である「光響」は、四季折々の景色や宇宙を80枚の連作で表現している作品です。
晩年も精力的に創作活動を行っていましたが、全て完成させることはできませんでした。
また、久保田一竹の跡は、息子である久保田悟嗣が継いでいます。
二代目久保田一竹となりました。
一竹工房や久保田一竹美術館の代表も務めています。
まとめ
久保田一竹は生涯をかけて辻が花染めの復刻に尽力し、一竹辻が花を完成させました。
晩年は国内外で展覧会を開催しています。
そして、86歳で亡くなりました。