「吉岡清十郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「吉岡清十郎」の死に際とは?日本の人物

吉岡清十郎は安土桃山の剣客で、剣豪として有名な宮本武蔵と勝負したことが知られています。

しかし、その生涯は謎が多くあります。

吉岡清十郎の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

吉岡清十郎とは?

吉岡清十郎は、足利将軍家の剣術師範を務める吉岡直賢の嫡男として誕生します。

吉岡家は京都で剣術の最大流派として知られる家柄で、剣術道場を構え数百人の門下生も抱えていました。

吉岡清十郎はその4代目となります。

宮本武蔵と試合をし、負けたというエピソードが残されています。

慶長19年に起きた江戸幕府と豊臣方の戦い「大坂の陣」では豊臣方に味方しましたが、大阪城は落城してしまいました。



吉岡清十郎の晩年

吉岡清十郎は大坂の陣の後、家業の1つであった染物業に専念したと伝えられています。

吉岡道場がどうなったのかはっきりしませんが、当主である清十郎が剣の道から離れたのは間違いないようです。



吉岡清十郎の最期

吉岡清十郎が亡くなったのは、慶長9年のことです。

能楽を鑑賞していた時に諍いを起こし、その際に殺されてしまったといわれています。

そして、梟首になりました。

吉岡清十郎をめぐる逸話

吉岡清十郎といえば、やはり宮本武蔵との試合を抜きには語れません。

吉岡清十郎は、宮本武蔵と試合を行っています。

吉岡側の歴史書によると、この試合で武蔵はかなりの出血をしたとされます。

そのため試合は吉岡清十郎の勝ちか、引き分けとしてあります。

一方、宮本武蔵側からみた書物も残されていて、それによると吉岡清十郎は武蔵に敗れ剣を捨てたとなっています。

木刀で武蔵に打たれた際には呼吸が止まってしまいましたが、弟子が救助したことで息を吹き返したというのです。

ちなみにその後、吉岡清十郎の弟である吉岡伝七郎が武蔵に挑みかかっていますが、返り討ちにあっています。

それがきっかけで、清十郎は剃髪したという話も残されています。

真相ははっきりしませんが出血したから武蔵の負けというのは強引なので、大分吉岡側に甘い判定のように思えます。

ですから試合に勝ったのは、やはり宮本武蔵と考えるのが自然でしょう。

吉岡清十郎の死に様の信憑性

吉岡清十郎の死に関して、宮本武蔵と試合をした時に斬り殺されたという説もあります。

ただし、清十郎が大阪の陣に参戦したのは間違いないので、この時に斬り殺されていれば参戦できないはずです。

ですから試合には負けたものの、命を落とすことはなかったと考えられます。

ちなみに宮本武蔵は、大坂夏の陣では徳川方に味方しています。

吉岡清十郎の父と宮本武蔵の父もライバル同士だったといわれており、清十郎と武蔵は深い因縁の相手といえます。

まとめ

吉岡清十郎は京都で最大流派だった吉岡流の剣術家でしたが、晩年は剣を離れ家業の1つである染物業に専念していました。

剣を離れた理由ははっきりしませんが、宮本武蔵に負けたからとも大阪夏の陣で負けたからともいわれます。

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