この記事では、「木村政彦」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「木村政彦(きむら まさひこ)」とは?簡単に説明
「木村政彦」は柔道家、プロレスラーであり、その功績から「鬼の木村」や「史上最強の柔道家」とも称され、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われています。
幼い頃より柔道で「熊本の怪童」や「九州の怪物」として名を馳せていました。
後に、「鬼の牛島」で知られる同郷の柔道家「牛島辰熊」に見出され、そこから15年間無敗の記録を轟かせることになります。
柔道引退後、「木村政彦」はプロレスラーへと転向し、「力道山」とタッグを組みました。
「木村政彦」の晩年と最期
1961年に柔道界へと再び戻り、拓殖大学の柔道部監督へと就任、1966年に同大学を全日本学生柔道優勝大会で優勝へと導きました。
また、「木村政彦」の下からはその後、全日本柔道選手権大会を制覇することになる「岩釣兼生」が輩出されました。
1983年に拓殖大学柔道部監督の任を勇退し、1993年4月18日に大腸がんにより死去します。
享年75歳でした。
「木村政彦」の死に様の信憑性
「木村政彦」の墓地は故郷である熊本県の熊本市南区野田の大慈寺にあります。
華々しい功績を残した「木村政彦」ですが、死してしばらくその名は一部の界隈で知られるのみでした。
なぜかと言うと、プロレスラーに転向したことなどを理由に戦後の柔道界が「木村政彦」の存在を柔道史から抹消していたためなのです。
しかし、2011年に長編ノンフィクション「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の出版をきっかけにその名は一躍世間に知られるようになります。
さらに、同著は漫画家され、幅広い層に認知されるようになったのです。
昭和の巌流島
もとよりタッグに不満を募らせていた「木村政彦」は「力道山」へ試合を申し入れ、1954年に試合が開催されました。
当初、この試合は両者引き分けとなる運びでしたが、試合中に突如「力道山」がブック(=台本)に反して殴りかかり、「木村政彦」はKOされてしまいます。
この試合は「昭和の巌流島」と呼ばれると共に、「力道山」のブック破りの理由など多くの謎を残しています。
まとめ
「木村政彦」は「鬼の木村」や「史上最強の柔道家」とも称される柔道家、プロレスラーです。
柔道において15年間無敗の記録を誇り、引退後はプロレスラーへと転身します。
晩年に柔道の世界へ舞い戻った後、1993年4月18日、大腸がんにより75歳で息を引き取りました。