この記事では、「堀越二郎」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「堀越二郎」とは?
堀越二郎とは、ゼロ戦と呼ばれる零式艦上戦闘機の設計者として知られる人物です。
東京帝国大学の工学部航空学科を卒業後、三菱内燃機製造に入社しました。
軍用機の設計に従事しており、ヨーロッパやアメリカに留学もしています。
1937年から十二試艦上戦闘機の設計に取り組みます。
それが後のゼロ戦になるものです。
それから雷電や烈風といった戦闘機の設計にも携わりました。
「堀越二郎」の晩年
第二次世界大戦後は新三菱重工業に勤務しますが、退社して教職に就きました。
東京大学宇宙航空研究所で講師を務め、ゼロ戦の操縦装置の基本理論によって東大工学博士となります。
その後、防衛大学校の教授や日本大学の教授などを歴任しました。
日本航空学会の会長も務めています。
それから飛行機事故の原因を調査する事故調査委員会の委員を務めたこともあります。
英国海外航空機空中分解事故やばんだい号墜落事故などの事故原因の究明にあたっています。
英国海外航空機空中分解事故は1966年に起きた事故で、英国海外航空のボーイング707が富士山付近で乱気流に巻き込まれ墜落しました。
ばんだい号墜落事故は、函館空港で着陸直前だった飛行機が墜落した事故です。
乗客・乗員全員が亡くなっています。
「堀越二郎」の死に様
堀越二郎は、1982年1月11日に亡くなりました。
死因は肺炎で、東京都内にある病院で亡くなっています。
享年78でした。
その訃報は世界にも伝えられ、ニューヨーク・タイムズにも掲載されました。
堀越二郎の名前が知られるようになったのは、2013年に公開された映画「風立ちぬ」です。
堀越二郎の半生をモデルにした宮崎駿監督のアニメ映画で、大きな話題となりました。
「堀越二郎」の死に様の信憑性
堀越二郎の死因は肺炎ですが、肺炎は風邪をこじらせたりしても起こります。
日本人の死因でも多いですが、そのほとんどは高齢者です。
高齢者は内臓の機能が低下していたり、免疫機能が低下していたりするので肺炎になりやすいといわれています。
発見が遅れ、重症化することも多いです。
堀越二郎も78歳という高齢であることを考えると、ちょっとしたきっかけで発症した肺炎が重症化したとも考えられます。
まとめ
堀越二郎は晩年も、飛行機に関わる仕事をしていました。
肺炎によって78歳で亡くなっています。