「二宮金次郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「二宮金次郎」の死に際とは?日本の人物

貴方の小学校に銅像はあった?「二宮金次郎」の死に際とは?

この記事では二宮金次郎の晩年と死に際について解説していきます。

「二宮金次郎」とは?簡単に説明

昭和期日本全国の小学校に必ずあったのが「二宮金次郎」の銅像です。

金次郎の本名は「二宮尊徳」

銅像には刀を持っていない事や銅像が広まった時期から明治時代の人物に思えますが、実は江戸時代末期の人物です。

刀を持っていないのは農民の出自によるもの。

しかし後年武家奉公人として小田原藩で頭角を現していきます。

小田原藩の荒廃した直轄地や縁のある武家の財政を立て直した実績を買われ、最終的には幕府に取り立てられる異例の出世を遂げた人物でした。



「二宮金次郎」の晩年

荒廃した土地を幾度となく報徳仕法によって建て直しに成功。

幕府の老中であった小田原藩第7代藩主「大久保忠真」はかねてより幕府に金次郎を登用したいと願っていたもの存命中に叶うことはありませんでした。

しかし忠真没後の1842年に金次郎は幕府へと召し抱えられる事になります。

普請役格として翌43年天領下総大生郷村、次いで44年日光山領の仕法で手腕を奮って見せました。

各地を転々としていた金次郎でしたが、終の棲家を下野国真岡とし移住したのは45年のこと。

以降は家康公が眠る日光東照宮のある日光神領で報徳仕法を施行していきました。



「二宮金次郎」の死に様

1856年11月17日、安政3年10月20日に下野国都賀郡今市村で死去。

69歳没。

死因は病死としか記されておらず、具体的な様子についてはほとんど解っていません。

「二宮金次郎」の死に様の信憑性

金次郎は1956年に病死したと言われます。

それ以外には1953年に体調を崩して寝込みがちになったと言える程度でしか解っていません。

そのため病死には多くの説があるもの全てが推測になります。

体調を崩してから3年近く存命した事を考えれば、幕末に多発した流行病の類は除外して考えていいでしょう。

コレラ、麻疹、水痘で多くの死者が出ていますが、文献に残された流行時期を調べれば明らかに否定できそうです。

それ以外では不治の病と呼ばれた結核と脚気はどちらもジワジワと進行する病のため可能性はありそうです。

但し前者は全く判断材料がないのが事実でした。

後者は下野国芳賀桜町に移住した時の食事を考えればなきにしもあらずだと言えるでしょう。

質素な食事をしていたとの事ですが、外食時は飯に水をかけて、味噌を舐めるのが常だった様です。

金次郎は当時としては大柄の体躯で六尺あったと言われます。

江戸から離れた地方では玄米や雑穀食により脚気は珍しいと言われます。

しかし食事量が少なく栄養が偏っていれば、脚気に罹患しても全く不思議ではないでしょう。

このほか熱中症や幼少期の過酷な労働が由縁によるヘルニア、前述した栄養失調、出世した事による重圧や他者の妬みから精神的不調を患ったなど説は千差万別。

それほどまでに具体的な様子が解る資料がないのが事実です。

まとめ

1856年11月17日、安政3年10月20日、下野国都賀郡今市村で死去。

69歳没。

死因は病死によるものが定説になります。

わかっている事が少なく、亡くなる3年前から体調を崩し伏せっていたと言われますが、記録が少ない事からそれすらも信憑性は微妙なのが本当のところでしょう。

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