この記事では、「團伊玖磨」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「團伊玖磨」とは?
團伊玖磨とは日本の作曲家で、エッセイストとしても知られています。
実業家で政治家でもあった團伊能の息子として誕生しました。
東京音楽学校の作曲部で学び、卒業後は交響曲やオペラ、歌曲など様々なクラシック曲を作曲しています。
1952年には、オペラ「夕鶴」で毎日音楽賞を受賞しています。
「ひかりごけ」や「楊貴妃」といった創作オペラも有名です。
「團伊玖磨」の晩年
團伊玖磨は晩年も、精力的に作曲活動を行っていました。
1985年には、交響曲第6番「HIROSHIMA」を作曲しています。
広島青年会議所平和問題委員会からの依頼を受けて作った曲で、広島の平和コンサートで初演が行われています。
広島交響楽団による演奏でしたが、團伊玖磨自ら指揮者を務めました。
1994年には神奈川芸術フェスティバルにおいて、オペラ「素戔嗚」を初演しています。
1997年にはオペラ「建・TAKERU」を作曲していて、新国立劇場のこけら落としとなった作品です。
天皇・皇后が臨席して鑑賞した天覧公演でした。
本来は團伊玖磨が指揮も務めるはずでしたが、急性心筋梗塞を起こして入院したこともあり「君が代」のみ指揮をしています。
「團伊玖磨」の死に様
團伊玖磨は、2001年5月17日に亡くなりました。
死因は心不全で、日本中国文化交流協会が主催する親善旅行で中国を訪れていた時です。
團伊玖磨は日中文化交流協会の会長を務めており、中国との文化交流にも熱心でした。
享年77です。
「團伊玖磨」の死に様の信憑性
團伊玖磨が亡くなったのは、突然の出来事でした。
以前にも急性心筋梗塞を起こしたことがありますが、その際には1か月程入院して復帰しています。
その後も精力的に音楽活動を行っており、海外に親善旅行に出かけるくらいですから体調は良好であったと考えられます。
また、亡くなる1年前に、妻の和子を急性心筋梗塞で亡くしていました。
團伊玖磨は2度結婚しています。
最初の妻はソプラノ歌手の桑原瑛子で、3年程で離婚しました。
2度目の妻はピアニストの藤枝和子で、最後まで添い遂げています。
まとめ
團伊玖磨は晩年もオペラなどの作曲活動を精力的に行っていました。
日中の文化交流にも熱心で、親善旅行で中国を訪れていた時に倒れ心不全によって亡くなりました。
享年77です。