武田信玄の弟として、武田家の副将として信玄を支え続けた「武田信繁」の晩年や最期を紹介します。
「武田信繁」とは?簡単に説明
武田信繁は1541年(天文10年)、武田信虎の次男として生まれました。
長男の武田信玄(晴信)は4歳上の兄です。
信玄が家督を継ぐと、武田家の御一門衆の筆頭として信玄を支えました。
信繁の官職である「左馬助」の唐名(中国の官称)から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれていました。
「武田信繁」の晩年
兄・信玄を補佐し、村上との戦や川中島の戦いなどで活躍した他、行政や外交なども任されていました。
その働きから、信玄から強く信頼されただけでなく、多くの武田家臣の尊敬を集めていました。
彼は、御一門衆筆頭として、武田家の飛躍になくてはならない存在となりました。
「武田信繁」の死に様
1561年(永禄4年)、武田信玄と上杉謙信が八幡原でぶつかります。
第四次川中島の戦いです。
武田信玄は、軍師・山本勘助らの献策を受け、別動隊で上杉軍を追いやり、これを本隊で叩く「啄木鳥戦法」を取ります。
このとき、信繁は信玄率いる本隊にいました。
しかし、啄木鳥戦法は上杉軍に看破されてしまいます。
1561年9月10日の朝、川中島にかかっていた霧が晴れると、武田本隊の眼前に上杉軍が現れ、襲いかかってきました。
不意を突かれた武田軍は防戦一方となり、この乱戦の中で武田信繁は討ち死にしました。
享年37。
「武田信繁」の死に様の信憑性
武田信繁の死については、亡くなった日まで記録されている他、武田・上杉両家の史料において言及されています。
誰に討ち取られたかははっきりしていませんが、第四次川中島の戦いの最中に死んだことはほぼ間違いないと考えられます。
「武田信繁」の小ネタ
「武田信繁」をさらに詳しく見て行きましょう。
武田の家督を継ぐかもしれなかった?
信繁は、父・信虎に溺愛されており、嫡男の信玄を差し置いて信繁に家督を継がせようとしていたと言われています。
しかし、信虎は信玄に追放され、信玄が家督を継いだため、信繁は信玄の補佐役として生きることとなりました。
真の武士
1558年(永禄元年)、武士の心がけや家臣との関係などについて記した「99箇条家訓」を記し、息子の武田信豊に与えました。
この家訓の内容は素晴らしいもので、後に徳川家康も参考にした他、江戸時代に入ってからも多くの武士や儒学者に読まれ「武田信繁こそ真の武士」と評されるほどの人気となりました。
惜しまれた死
信玄は、川中島で戦死した信繁の遺体を抱いて号泣したと伝えられています。
武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」とその死を悼みました。
信繁が生きていたら、後年に起こる信玄と信玄の長男・武田義信の対立はなかったとも評されています。
敵である上杉謙信もその死を惜しみました。
また、真田昌幸は、後に生まれた息子に「信繁」と名づけています。
まとめ
武田信繁の晩年や最期について紹介しました。
その死を多くの人に惜しまれたことから、その能力や人柄がうかがえます。
彼が川中島で死ぬことがなければ、武田家はまた違った運命を辿り、天下の趨勢に大きな影響を与えたかもしれません。