与謝野晶子はしらないけれど「与謝野馨」の死に際とは?
この記事では与謝野馨の晩年と死に際について解説していきます。
「与謝野馨」とは?簡単に説明
1976年に議員初当選、「中曽根康弘」氏のもとで秘書を積み、研鑽を重ねました。
初出馬で当確と目されながら落選、大平正芳内閣時の総選挙でも落選したのに若い頃からガンに罹患。
公私に渡り苦難の道を歩んだ苦労人であるのは間違いないでしょう。
晩年は『たちあがれ日本』を結党し、長年在籍した自由民主党から離脱するなど波乱の道を歩んだ事でも有名です。
また苗字から予想されるとおりに歌人「与謝野鉄幹」氏と「与謝野晶子」氏を祖父母。
しかし実際には1986年のヒット曲の歌詞の様に2人の記憶は殆ど残っていないそうです。
「与謝野馨」の晩年
立ち上がれ日本から日本の連立政権参加は叶わずに、結局新党から離脱する憂き目にあっています。
その後は無所属ながらも民主党・無所属クラブに所属したことで紛糾を呼ぶことになりました。
口さがなさい人は既にこの時点でその節操のなさを批判。
さらにこの後には野田内閣発足時に民主党・無所属クラブを離脱するなどの迷走を続ける事になりました。
自身の健康問題も手伝って2012年年末の総選挙への出馬も断念。
しかし新人議員を支援する名目で自民党復党を試みるも統べなく却下されるなど端から失笑を買うことになってしまいました。
しかし政界から姿を消して暫くたった2017年4月末に自民党へ復党する事になりました。
「与謝野馨」の死に様
2017年5月21日に逝去しています。
76歳没。
死因は肺炎によるものでした。
2012年に罹患した咽頭癌の再発、転移なども予想されますが、事実は一切公表されていないため不明です。
「与謝野馨」の死に様の信憑性
当初から近親者とかつて秘書を務めた中曽根氏の関係者にしかその死は伝えられず、当初は死亡日も公表されていませんでした。
このため死亡日も未だに日付が違う記載の記事があるのも事実です。
死因に関しては後日に肺炎と報じられていますが、それに繋がった病気、闘病生活については一切公表されていません。
引退から5年経過しての禊ぎが済んだ説、そして既に容態が悲観的なものである恩赦の2つが自民党復党説の背景として囁かれる事になりました。
復党して間もなくの死を迎えた事から後者の説が有力だと言えるでしょう。
与謝野氏は自ら『がん政治家』を名乗っており、2012年の咽頭癌で声を失った事はあまりに有名。
しかし晩年の闘病生活についてはほとんど公表されていないため、咽頭癌の再発や転移によるものかはわかっていません。
まとめ
2017年5月21日に永眠。
76歳没。
死因は肺炎によるものでした。
自身でがん政治家を名乗る通り1976年から3度の癌と闘病生活を送っています。
当初は近親者と恩師中曽根氏の関係者にしか死亡の事実は明かされず、死亡日も公表されていませんでした。
後日死亡日や死因は明らかにされましたが、そこに至るまでの経過については一切不明だと言っていいでしょう。