父「真田昌幸」や弟「真田幸村」と並んで知勇が評される「真田信之」。
「真田家」存続のために父や弟と別れて戦った末に、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「真田信之」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「真田信之(さなだ のぶゆき)」とは?簡単に説明
「真田信之」は、戦国武将であり、戦国大名だった人物です。
「徳川家康」に「日本一の兵」と評された「真田幸村/真田信繁」の兄としても有名です。
元主君「武田氏」滅亡後、「豊臣秀吉」に臣従し、真田家は「徳川家康」の与力となります。
その際に、「真田信之」は「徳川家康」の養女「小松姫」と婚姻を結びます。
「関ケ原の戦い」が起こると、「真田信之」は父・弟と別れ、「徳川家康」の東軍に加わります。
続く「大阪の陣」でも徳川方に与しますが、病気のため出陣がかなわず、代わりに長男と次男を出陣させました。
「真田信之」の晩年と最期
「大坂の陣」の後、元和8年(1622年)に「真田信之」は祖父の代より受け継いできた上田の地から信濃国松代(現在の長野県)へ転封となります。
それから、しばらく経った明暦元年(1656年)に家督を次男「真田信政(さなだ のぶまさ)」に譲って隠居しますが、万治元年(1658年)に信政が死去してしまいます。
それにより、「真田信利(さなだ のぶとし)」と「真田幸道(さなだ ゆきみち)」の間で真田家の後継者争いが起こりました。
争いの末に、「真田幸道」が3代目松代藩主となりますが、当時まだ2歳であったことから、「真田信之」が復帰して藩政を取り仕切りました。
そして、同年の10月17日に死去します。
享年93歳でした。
「真田信之」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
「真田信之」にまつわるエピソード
「関ケ原の戦い」の折、父「真田昌幸」や弟「真田幸村/真田信繁」が「石田三成」方の西軍に与したのに対し、「真田信之」は「徳川家康」方の東軍として参戦しました。
通説では、これはどちらに勝敗が決しても「真田家」が存続できるようにするための「真田昌幸」の策だと云われています。
「関ケ原の戦い」や「大阪の陣」にて、真田家は徳川方を幾度も苦しませており、そのことから「真田信之」も幕府から睨まれることが多かったようですが、「真田家」の存続を第一に、献身的に幕府に仕えたとされています。
その後、「真田家」は明治維新後も存続していきます。
まとめ
「真田信之」は、戦国武将、戦国大名だった人物であり、「真田幸村/真田信繁」の兄としても有名です。
やがて「徳川家康」の養女「小松姫」を娶り、徳川家と血縁関係となります。
「関ケ原の戦い」、「大阪の陣」では「徳川家康」と敵対した父や弟と別れて、徳川方に与します。
その後、徳川幕府の下で晩年を迎え、万治元年(1658年)に隠居から藩政に復帰しますが、同年に死去。
93年に渡る長い生涯を終えます。