「土屋昌続」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「土屋昌続」の死に際とは?日本の人物

戦国武将の「武田信玄公」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

武田信玄公が寵愛した最後の将・土屋昌継の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。

「土屋昌継」とは?簡単に説明

土屋昌継とは武田二十四将に数えられるとともに武田信玄が晩年溺愛して、もっぱら側に置いた武将です。

甲斐・信濃の有望な若手を集めた奥近習六人衆であるとともに信玄の護衛侍大将を勤めました。

片手千人斬りの実弟・昌恒は伝説になっていますが、昌継は伝説の“とび加藤”(忍者とも妖術師とも言われる)を仕留めた武功の持ち主です。

また信玄公の影武者役をも果たし、創作物の土屋姓の登場人物は昌継を指しており、愛刀として「影法師」を携えていました。



「土屋昌継」の晩年

昌継は1575年の長篠の合戦で亡くなりました。

享年31歳と肉体的にもっとも油の乗った時期に若くして亡くなったため、一般的な晩年らしいエピソードは特別ありません。

しかし死の2年前に特別の寵愛を受けていた信玄公が1573年に亡くなったことは彼に大きな影響を与えたはずです。

信濃国阿知村の駒場で亡くなった彼の側に寄り添うとともに遺骨を甲府に持ち帰り自分屋敷の庭に埋めました。

このあと昌継は側近として殉死するつもりでしたが、同じく多大なる寵愛を信玄公から受けた春日虎綱の説得で翻意した逸話が残ります。

信玄公が亡くなって以降は若手では筆頭格と言ってよく、長篠の戦いの際には武田四天王の随伴していた山県昌景、馬場信春、内藤昌豊とともに陣代の武田勝頼に退却を具申しています。



「土屋昌継」の死に様

土屋昌継は武田軍にとって悪夢の出来事であった長篠の合戦で弟・昌恒の義父である土屋昌綱とともに亡くなっています。

この合戦の描かれた屏風図では信州真田家の当主である真田信綱、昌輝隊とともに天神山に陣を構えました。

鶴翼の陣の要である右翼の馬場隊と対峙して、容易に動けない佐久間信盛隊の脇を狙い突破。

“退き佐久間”の退路を絶つとともに味方中央の後備えの一族衆を引き込み包囲殲滅の逆魚鱗 戦が始まると真田兄弟とともに織田寄力衆の仙石秀久隊の陣を突破。

しかし先行した真田隊ならびにその後詰めの内藤昌豊隊が殲滅されたことで、戦の流れが一変します。

織田軍の鉄砲総奉行の滝川一益隊に撃たれたとの記述が残されている通り、敵陣の馬防柵の二番まで突破しそこで果てたようです。

「土屋昌継」の死に様の信憑性

長篠の合戦の信長の鉄砲戦術の分析が近年では馬防柵を用いた三段構えの速射戦術(昭和の漫画やアニメなどで描かれた描写)から、鉄砲の精度の低さを補うために、複数の射線を確保しての包囲戦術だったと解釈されるようになっています。

このため柵を突破して織田旗本衆に迫った先方衆で名のある武将はほとんどが亡くなりました。

中央柳田まで戻り、逍遙軒信綱、武田信豊の一門衆を逃すために囮として再突入した説もありますが、真田隊とともに突出して包囲射撃を受け殲滅されたか真偽が不明です。

また愛知県新城市には『馬防柵・土屋昌次戦死之地』が現存しています。

まとめ

長篠の戦いの際に馬場、山県、内藤とともに勝頼に退却の進言が受け入れられなかったことで、水盃をかわして出陣した言い伝えがあります。

この出陣の時点で信玄公への殉死に近い、死への覚悟はできていたのは間違いないでしょう。

また昌継にとって勝頼はあくまでも陣代で己の主君は信玄公という根の部分は変えられなかったのかもしれません。

それが昌継が敗戦を予期しながらも、敵陣の奥で果てた1つの要因ではないでしょうか?

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