「大山綱良」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大山綱良」の死に際とは?日本の人物

薩摩藩最強の剣客と称され、鹿児島県の初代県令を務めた「大山綱良」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「大山綱良」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「大山綱良(おおやま つなよし)」とは?簡単に説明

「大山綱良」は薩摩藩士であり、「維新の三傑」と称される「西郷隆盛」「大久保利通」と共に「精忠組」として活動していました。

文久2年(1862年)に「島津久光」が過激な尊王派薩摩藩士の粛清に乗り出し「寺田屋騒動」が起こります。

「久光」の命の下、粛清に参加した「大山綱良」は斬り合いとなるも、説得の末に、大半の藩士を投降させました。

その後、文久3年(1863年)の「薩英戦争」では切り込み隊長として活躍を果たします。

「薩長同盟」の際は、藩の代表として「大久保」と共に盟約に調印したとされています。



「大山綱良」の晩年と最期

明治元年(1868年)に明治新政府軍と旧幕府軍との間で「戊辰戦争」が始まると、「大山綱良」は奥羽鎮撫総督府の下参謀に任じられます。

明治維新後は「廃藩置県」に伴い、鹿児島県の初代県令に就任しました。

明治6年(1873年)に「明治六年政変」により、「征韓論」に敗れた「西郷」が鹿児島へ下野すると、「大山綱良」は私学校設立に協力します。

やがて、明治10年(1877年)に「西郷」を筆頭に士族たちが反乱を起こし、「西南戦争」が起こると、「大山綱良」「西郷」たちを資金的に援助しました。

それが原因で逮捕されることになり、「西郷」たちの敗北後、同年9月30日に「大山綱良」も長崎にて斬首に処されます。

享年53歳でした。



「大山綱良」の死に様の信憑性

「西南戦争」にて、反乱軍である「西郷」たちに資金援助をした罪で逮捕され、その後、斬首となりました。

薩摩藩最強の剣客

「大山綱良」「薬丸自顕流」の剣術の達人であり、その腕前は藩内で随一と謳われていました。

「大山綱良」「西郷」「藤田東湖」に面会した時のことです。

「西郷」「大山綱良」を剣術の達人と紹介すると、「藤田」「神道無念流」であったこともあり、塾頭と試合をすることになりました。

防具と竹刀を装備した塾頭に対して、「大山綱良」は防具も付けず小太刀を一本携えただけでした。

試合が始まるや否や、「大山綱良」は素早く塾頭に打ち込み、瞬く間に勝負を制したと云われています。

まとめ

「大山綱良」は薩摩藩士であり、明治維新後に施行された「廃藩置県」により、鹿児島県の初代県令となった人物です。

県令でありながら、明治政府には批判的であり、「明治六年政変」により鹿児島へ戻った「西郷隆盛」を手厚く援助しました。

明治10年(1877年)に「西南戦争」が勃発した後も「西郷」たちへ資金を提供しており、このことが罪に問われ、逮捕されてしまいます。

そして、「西郷」たちの敗北で「西南戦争」が終結すると、「大山綱良」も同年9月30日に斬首されました。

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