「松田優作」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「松田優作」の死に際とは?日本の人物

松田優作の死因とは?

「松田優作」とは?簡単に説明

昭和24年に山口県下関市で生まれた松田優作は、昭和40年代から60年代にかけて俳優として活躍していました。

日本人の父と在日韓国人の母との間に誕生した松田は、幼い頃は自分が生粋の日本人だと思っていたそうです。

母の強い勧めでアメリカのカリフォルニア州にある高校に入学するものの、中退して日本の高校に編入し、卒業後は関東学院大学に進学しています。

大学在学中に入った劇団では、後に妻となる松田美智子と出会い、翌昭和47年には劇団「文学座」に入所しています。

入所後まもなく文学座で頭角を現した松田は、昭和48年から放映開始されるテレビドラマ「太陽にほえろ」のキャストに抜擢され、アクション俳優顔負けの体当たりの演技が評価されたことで、ここから人気に拍車がかかっていきます。

その後、国内での人気を不動のものにしていた松田は、平成元年にハリウッド映画「ブラック・レイン」に出演することが決まりますが、映画の撮影中に自身がんに侵されていることを知ります。

しかしながらその事実は関係者にも伏せられ、そのまま撮影は続行され無事にクランクアップを迎えています。

最期まで撮影を完遂し映画の公開を迎えたものの、1か月後の平成元年11月6日、膀胱がんが腰部に転移したことにより40歳で死去しています。



「松田優作」の死に様

平成元年11月6日、松田優作は自身が出演したハリウッド映画「ブラック・レイン」の公開後1ヶ月ほどで40年間の人生に幕を降ろしています。

直接の死因は膀胱がんが腰部に転移してしまったことによるものでしたが、体調不良の予兆は昭和63年に公開された映画「華の乱」の撮影時にすでに始まっていたと言います。

撮影中、松田は尿が出なくなってしまったことでお腹がパンパンに膨らんでしまっており、それに加えて血尿や尿意切迫感、排尿時痛や下腹部の痛み、背中の痛みなどが併発していました。

あまりの痛みから診断を受けてみると、すでに血の塊が尿道を塞いでおり、下腹部は大きく腫れ上がっている状態でした。

そのため、急遽膀胱洗浄による尿排出の応急処置が施されますが、膀胱内の血管は3か所も破損して出血しており、潰瘍が膀胱内の一面に広がっていたそうです。

遺作となるブラック・レインでは痛み止めを常用しながら撮影に臨み、無事に公開することが叶いますが、公開後1か月ほどが経過した後に死亡しています。



「松田優作」の死に様の信憑性

松田優作は膀胱がんの闘病生活と並行して、遺作となる「ブラック・レイン」の撮影を続けていました。

すでにがんの症状は末期的でしたが、大量の痛み止めを使って激しい痛みに耐えながら撮影を続行し、自身がんに侵されていることは撮影関係者には知らせずに、共演者の俳優である安岡力也のみに知らせていました。

一日ごとに心身ともに衰弱していく松田でしたが、ハリウッド映画「ブラック・レイン」にかける深い思いは命がけと言ってもよいものでした。

松田は自身に在日韓国人の血が入っていることに対し、強烈なコンプレックスを抱えていたということが知られています。

すでに帰化申請は受理され正式に日本国籍を得てはいたものの、その後ろめたさは消えず、私生児であったことも重なって非常に強い引け目を感じ続けていたそうです。

人気が出てくるほどにその葛藤も大きくなり、松田はハリウッド映画に出演することで世間への後ろめたさを払拭しようとしていたのかもしれません。

「松田優作」の小ネタ等

若い頃から1日100本以上の煙草を吸うほどのヘビースモーカーだった松田優作は、自身が尊敬する俳優渡哲也が禁煙を始めたことを知って、自身も1日15本ほどまで減煙していましたが、最期まで禁煙することはできませんでした。

まとめ

最期まで俳優としての自分の美学を貫いた松田優作の魂は、現在においても息子たちである松田龍平さんや松田翔太さんに宿っていると言っても過言ではないでしょう。

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