「堀秀政」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「堀秀政」の死に際とは?日本の人物

堀秀政は織田信長や豊臣秀吉に仕えた戦国武将で、厚い信頼を勝ち得ていました。

堀秀政の晩年と最期を紹介します。

堀秀政とは?

堀秀政は、美濃で斎藤道三の家臣だった堀秀重の子として生まれました。

13歳の時に、織田信長の小姓となります。

奉行職を務め、信長の側近として働きました。

信長が朱印状を書く際に、書状を添えるのも側近の役目になります。

戦にも参加するようになり、越前一向一揆討伐や伊賀平定作戦など様々な合戦に従軍しました。

荒木村重が謀反を起こしたことに端を発する有岡城の戦いでは、鉄砲隊を率いて戦っています。

1581年には、織田信長から2万5千石を与えられました。



堀秀政の晩年

本能寺の変によって織田信長が死亡したと伝えられた堀秀政は、一緒にいた豊臣秀吉と共に上方に帰って山崎の戦いに参加しました。

この時、秀政は先鋒を務めています。

信長の弔い合戦であったこの戦いに勝利したことで、秀吉は信長の跡を継ぐための地歩を固めます。

その後の清須会議で、秀政は佐和山城と9万石を与えられました。

これ以降は、秀吉の家臣となります。

秀吉からは羽柴姓も与えられています。

秀吉の家臣としては、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い、四国平定などに従軍しました。

賤ヶ岳の戦いでも武功をあげていますし、小牧・長久手の戦いでも味方は大敗していますが秀政は敵を挟撃するなど功績を残しています。

こういった軍功が認められ、越前国北ノ庄の18万石を与えられます。

豊臣姓も下賜されました。



堀秀政の最期

堀秀政が亡くなったのは、1590年に小田原征伐に参加していた時のことです。

小田原征伐は関白となった豊臣秀吉が、小田原北条氏を攻撃した合戦になります。

秀政は左備の大将を命じられ、山中城を陥落します。

そして、小田原早川口まで攻め込んで、海蔵寺に本陣を敷きました。

しかし、疫病にかかってあっけなく亡くなってしまいます。

享年38という若さでした。

秀吉は秀政をかわいがっており、その死を惜しんだといいます。

堀秀政の死後

堀秀政が急逝すると、その跡を継いだのは長男の秀治です。

秀治も秀政と共に小田原征伐に参加していました。

秀治はまだ若かったので、補佐役を堀直政が秀吉から任されます。

直政は秀政の従兄弟で、小さい頃は秀政と一緒に育ちました。

お互いに信頼し合っていた関係で、秀政とは堀家を発展させようと約束していたといいます。

直政が補佐したおかげもあり、秀治は越後春日山30万石の大名となっています。

関ヶ原の戦いの時にも、直政が秀治に徳川方に組するように助言したといいます。

そのかいもあって、堀家の家名は後々まで続くこととなりました。

まとめ

堀秀政は織田信長や豊臣秀吉といった天下人に仕え、主君からは厚い信頼を寄せられていました。

豊臣秀吉の家臣となってからは、様々な合戦に参加します。

そして、小田原征伐の時に疫病を患ったことで亡くなりました。

享年38という若さでした。

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