「三浦義村」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「三浦義村」の死に際とは?日本の人物

「三浦義村(みうらよしむら)」とは?

三浦義村の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「三浦義村」とは?簡単に説明

三浦義村は鎌倉時代初期の相模国の武将で、鎌倉幕府の有力御家人です。

1199年に頼朝が亡くなると幕府内部における権力闘争が始まります。

梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱、牧氏事件、和田合戦、そして実朝暗殺と次々と起こる事件の中で権力を掌握していく北条氏(北条義時)に付かず離れず不可解な動きを見せますが、最後は北条義時を支援して功を立てるといった不思議な人物で、義時死後もさらに生き延びます。

なお、義時死後は宿老に就任し、北条氏に次ぐ地位を得て、執権北条泰時の政治を支えています。



「三浦義村」の死に様

延応元年12月5日(1239年12月31日)に三浦義村は死去しています。

ただ生年ですが、義村の生誕や幼少期に関する史料がほとんど残っておらず、1168年生まれとしているのはあくまで歴史的観点からの推測です。

よって、もし推測通りだったとすると、義村は享年72歳で亡くなったことになります。

義村の死因ですが、「吾妻鏡」によると「頓死、大中風」とあります。

「頓死」とは急死のことを意味し、「大中風」とは脳卒中(脳梗塞、脳出血、くも膜下出血)のことをいうそうです。

権力闘争の中で多くの有力御家人や将軍までも殺されていった中、義村だけは殺されることもなく、当時としては長命でなおかつ現代的な死因で亡くなったようです。

北条義時が1224年に亡くなっていますので、義時の死後も15年も長く生きていることになります。



「三浦義村」の死に様の信憑性

三浦義村の死に関しては、「吾妻鏡」にはっきりと記載されていることや、当時、幕府内は一連の権力闘争も終わり平穏な時期だったため、死因を隠蔽したり変えたりする必要性も見当たらないことから信憑性は高いと思われます。

「三浦義村」の小ネタ等

藤原定家は「明月記」の中で三浦義村のことを「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書いています。

同時代人からしても義村は権謀家と見られる一方、得体の知れない理解不能な人物と思われていたようです。

北条義時にとっても最終的には生涯裏切らなかった盟友と言う扱いになっていますが、いつ足をすくわれていたか分からないチャンスは多々あったと思いますので、気が気ではなかったでしょう。

まとめ

三浦氏のその後ですが、義村の活躍によって北条氏に次ぐ地位まで昇り詰めます。

しかし三浦氏は義村の時がピークで、義村の死後、三浦一族はその子の泰村・光村兄弟の時に宝治合戦で北条氏と安達氏によって滅ぼされてしまいます。

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