「佐々木小次郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「佐々木小次郎」の死に際とは?日本の人物

剣客・剣豪の「佐々木小次郎」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

「佐々木小次郎」のおおまかな人生のあらすじを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「佐々木小次郎」とは?簡単に説明

「佐々木小次郎(ささきこじろう,生年不詳-1612年)」とは、二刀流(二天一流)の剣豪・宮本武蔵(みやもとむさし)のライバルとして有名な江戸時代初期の剣客です。

小次郎は「巌流島の決闘」で宮本武蔵に敗れたことでも知られています。

佐々木小次郎がいつ生まれたのかは記録がなく、その正確な氏名も史料では確認しづらい人物です。

小次郎自身は中条流の剣客で、「岩流(岸流,がんりゅう)」を自称していました。

小次郎は中条流の富田勢源(とみたせいげん)の弟子とされます。

それだと18歳という決闘時の年齢に合わないので、富田勢源の弟子で鐘捲流(かねまきりゅう)を起こした鐘捲自斎(かねまきじさい)の弟子という説もあります。

小倉藩の細川家(細川忠興)に剣術指南役として仕官して、当時「物干し竿・三尺・青江」と呼ばれる長剣をぶら下げ、「燕返し」の必殺技を使う無敵の剣客として評判になっていました。



「佐々木小次郎」の晩年

「佐々木小次郎」「二天記」の通説では18歳で敗死したとされていますが、実際の年齢は78歳の書き間違えではないかとの説もあります。

佐々木小次郎は謎の多い人物ですが、晩年は細川家に剣術指南で仕え、当時高い剣名で世の中に知られていた宮本武蔵と決闘をすることになります。

1612年5月13日(慶長17年4月13日)に、宮本武蔵と山口県下関市の「舟島(巌流島)」で決闘して、その戦いに敗れて亡くなったと伝えられています。



「佐々木小次郎」の死に様

「佐々木小次郎」の死に様は、慶長17年4月13日に「巌流島の決闘」で、宮本武蔵に木刀(櫓でつくった木剣)で頭を一撃で打たれて死んだというのが通説です。

「武蔵がわざと決闘の時間に遅れる心理戦」で、小次郎の集中力を落として勝った説もありますが、これは吉川英治の小説「宮本武蔵」の創作で史実ではありません。

武蔵の養子・宮本伊織が建立した「小倉碑文(1654年)」には、宮本武蔵が木刃の電光石火の一撃で、三尺の白刃を持つ佐々木小次郎を打ち倒したと記されています。

ただし、細川家家老の沼田延元の家来が書いた「沼田家記(1672年)」では、武蔵は一騎打ちの約束を破って、四人の弟子と共に巌流島に行き、最期は弟子らが小次郎を撲殺したと伝えています。

「佐々木小次郎」の死に様の信憑性

「佐々木小次郎」の死に様について、慶長17年4月13日に「巌流島」で宮本武蔵に殺されたことはほぼ確実ですが、「一騎打ちの正々堂々とした果し合いの結果」なのかの信憑性は疑わしい部分もあります。

宮本武蔵が櫓を削った木剣で、佐々木小次郎の頭を一撃で叩き割って殺したという説が有力とされています。

一方、細川家家老の記録などで、武蔵が複数の弟子を引き連れていき、小次郎を集団で撲殺する卑怯な殺し方をした説もあります。

まとめ

「佐々木小次郎」の大まかな人生の展開と晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか? 「佐々木小次郎」は、宮本武蔵との「巌流島の決闘」に敗れて死亡したと伝えられていますが、死亡時の年齢・状況は曖昧なところもあります。

「佐々木小次郎」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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