近衛篤麿は明治時代の政治家の一人で、後陽成天皇の子孫でもあります。
その晩年や最期について紹介します。
近衛篤麿とは?
近衛篤麿は近衛家の第28代当主で、左大臣を務めた近衛忠房の長男として生まれます。
1879年に華族令が制定されると、公爵に叙せられました。
ドイツとオーストリアに留学しましたが、アジア主義の思想を提唱した人物です。
帰国後は貴族院の議員となり、藩閥政治に代わる新しい時代の政治の在り方を模索し続けました。
外交政策では清(中国)を重視した政策を掲げ、アジア主義の盟主として国際問題に積極的に関わります。
近衛篤麿の晩年
日清戦争が終わった後、近衛篤麿はアジア問題に強い関心を抱きます。
そして西欧が中国を分割しようという動きに脅威を感じてもいました。
近衛篤麿は日本も中国も白人の仇敵という立場は同じ、つまり同文同種であるという主張をし、同文会を設立しています。
同文会はその後、アジア主義の原点ともいえる興亜会と合併し、東亜同文会となります。
近衛篤麿はその会長に就任しました。
近衛篤麿の最期
1900年に義和団の乱が起きると、ロシアは満州を占領下に置きます。
これに対して強い危機感を抱いた近衛篤麿は、ロシアに対して強硬論を主張します。
戦争を厭わず、強い態度で望むべきだと政府の高官に働きかけました。
しかし、内閣総理大臣であった伊藤博文は、ロシアに対して融和政策を掲げている人物です。
日本とロシアとの戦争を回避しようと動いていました。
その姿勢を近衛篤麿は批判し、犬養毅や頭山満、陸羯南らと共に国民同盟会を結成します。
そして、ロシアと戦うことを主張しました。
近衛篤麿を中心とする内閣を作ろうという動きもありましたが、篤麿は思わぬ病に倒れてしまいます。
中国に渡航する際、アクチノミコーゼという伝染病に感染したのです。
それにより42歳という若さで没してしまいます。
篤麿の死から2か月後、日露戦争が始まりました。
近衛篤麿をめぐる逸話
近衛篤麿は皇室とも関係が深い名家の生まれですが、政治活動に熱心だったためいつも家計は火の車だったといわれています。
貴族院の議員を務めていましたが、公爵は無給なので議員としての収入はありません。
貴族院の議長を務めていた時には、議長としての収入はありました。
また、学習院の院長を務めており、その分の収入もあったようです。
しかし、政治活動を活発に行うには多大な資金が必要で、それらの収入では全く足りませんでした。
そのためいつも借金をしていて、近衛篤麿が亡くなった後にも多大な借金が残されていたといいます。
まとめ
近衛篤麿はアジア主義の思想を提唱した明治時代の政治家です。
晩年はアジアをめぐる外交政策に強い関心を示し、東亜同文会の会長となりました。
中国で義和団の乱が起きロシアが満州を支配すると、ロシアと開戦することを主張します。
しかし、中国に渡航する際に伝染病にかかり、42歳で亡くなってしまいました。