「内藤昌豊」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「内藤昌豊」の死に際とは?日本の人物

「内藤昌豊」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。

「内藤昌豊」とは?簡単に説明

内藤昌豊は武田二十四将かつ武田四天王の1人です。

内藤昌豊は信濃国深志城のちに上野国の箕輪城の城代を務めるとともに武田信玄の副将役を務めました。

信玄公の代表的な戦には全て帯同してはいるものの、各種史料に名前が見られるようになるのは37歳の時、この時には既に信玄公の側近として活躍していたようです。

人気武将だけに本来の名前は内藤昌秀だと知っている方も多いのですが「工藤源左衛門尉昌秀」の工藤姓で生涯の大半を過ごしています。

「内藤昌豊」の晩年

武田普代の内藤家の名跡を継いだその頃に上野国箕輪城の城代として着任します。

内藤昌豊、昌秀という名前は人気大名家の重臣のためよく知られていますが、内藤を名乗ったのは実は亡くなるまでのわずか5~6年でした。

関東上野国において、同盟国である北条氏との連絡役や関東進出を狙う上杉謙信に睨みを効かせる役割を務めています。

信玄公の戦いにはほぼ帯同している昌豊は三方原の戦いにも従軍。

信玄公が死去したあとは、そのまま勝頼、陣代を支える1人として役割を果たします。

「内藤昌豊」の死に様

開戦後に勝頼が昌豊が陣を張った天王山に移ったことで、副将として指揮を取ります。

先方衆の真田信綱隊が中央突破に成功、織田軍の馬防柵を破ったことに活路を見いだし、中央後備え隊1500名とともに出撃。

信綱隊同様に第二の馬防柵まで突破し、第三の柵も突破したものも20名ほどいましたが、鉄砲隊の包囲射撃の前に敗走するのでした。

天王山まで退却後、勝頼に撤退を促し自らは殿を務めます。

その後は壊滅した内藤隊と天王山まで退却してきた各隊の残存兵を率い勝頼を逃がすために必死の抗戦。

勝頼の旗印が見えなくなるまで戦い、身体には矢竹が突き刺さり、討ち取られた時の姿はまるで外套を着ているようだったと言われています。

享年54でした。

「内藤昌豊」の死に様の信憑性

昌豊の死に様の信憑性については諸説がありすぎて、どれが本当なのかは2021年現在でもはっきりしていません。

長篠の合戦直前に成立した『甲陽軍鑑』を紐解いてみれば、内藤隊は織田本隊と戦ったことになっていますが、『本多家武功聞書』によれば徳川家康の軍勢の本多忠勝と戦ったことが記されています。

この戦いで山県昌景は確かに左翼に布陣し、徳川勢と激しい交戦があったと伝えられていますので、山県勢とともに戦ったのならば『本多家武功聞書』が正しいと言えるでしょう。

しかし『甲陽軍鑑』では織田本隊と戦った記載があり、左翼でも中央寄りの天王山に布陣(長篠合戦図屏風は左翼)しています。

この場合は佐久間信盛隊の脇を突破した信州先方衆の真田信綱、昌輝兄弟の後詰めで渡河した後に織田本体の鉄砲包囲射撃を受けて撤退したと考えられています。

また甲陽軍艦では退却戦のおりに今川家臣で徳川陣中見舞いに訪れていた朝比奈泰勝に討ち取られことになりました。

馬場信春と土屋昌次以外の戦死した武田軍の場所が特定できないことを考えれば、この信憑性も高くはないと思われます。

また『信長公記』では討ち取った武田勢の武将の記載に名前もあがっていません。

まとめ

長年、信玄公の副将を務めた武将らしく大将を生かすために昌豊は長篠の合戦で果てたと言えるでしょう。

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