「豊臣秀吉」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「豊臣秀吉」の死に際とは?日本の人物

天下統一を成し遂げ栄華を極めた豊臣秀吉ですが、最期はどのように迎えたのでしょうか。

天下人に上り詰めていく立志伝とは裏腹に、負の側面が際立った晩年を迎えています。

豊臣秀吉とは?

豊臣秀吉は農民の出ながら戦国武将として活躍し、関白・太政大臣といった地位に上り詰めた人物です。

織田信長に気に入られ、信長の元で様々な戦功を上げ出世していきます。

そして、本能寺の辺により信長が自害すると、本能寺の変を起こした明智光秀を討ち取りました。

信長の後継者争いにも勝ち、豊臣政権を確立するのです。

豊臣秀吉の晩年

豊臣秀吉の晩年で大きな出来事といえば、2度の朝鮮出兵です。

豊臣秀吉は天下統一を果たした後、朝鮮へ2度の大軍を送り込みます。

文禄の役・慶長の役と呼ばれています。

この朝鮮出兵は、秀吉の汚点とされています。

この国際的な戦争は16世紀においては最大規模であったとされますが、なぜ秀吉が朝鮮出兵を決意したのかはいまいちはっきりしません。

現在の中国である明国を征服するための足掛かりとしようとしたという説が有力で、世界進出の野心を抱いていたことは間違いないようです。

ちなみにこの戦争で決着はつかず、慶長の役の最中に秀吉が死去したことで終息しました。

豊臣秀吉の最期

豊臣秀吉は慶長3年の春に、京都の醍醐寺山麓で盛大な花見の宴を催します。

招待客は1300人にも上り、700本もの桜の木を植樹して行われた盛大なものでした。

その後、秀吉は急速に衰え病に伏せるようになります。

自らの死期を悟った秀吉は、諸大名を呼び寄せて遺言を残します。

とりわけ強く願ったのは、側室である淀君との間に生まれた秀頼の将来のことでした。

徳川家康には、秀頼の後見人になるようにと頼んでいます。

そして、8月18日に秀吉はその生涯を閉じました。

豊臣秀吉の死因

豊臣秀吉は病死ですが、その死因については明確ではありません。

赤痢といった疫病や大腸がんなど諸説あります。

ただし、亡くなる数年前から衰えが目立っていたとも言われています。

豊臣秀吉にまつわる逸話

豊臣秀吉が亡くなる寸前まで気にしていたのは、豊臣家の行く末と愛息・秀頼のことでした。

亡くなる数日前にも徳川家康や前田利家、毛利輝元、宇喜田秀家、小早川隆景といった五大老を呼び寄せて、秀頼のことをことさら頼むと託しているのです。

秀頼が成人した後には、豊臣政権をそのまま継承できるようにと願いました。

この時、秀頼はまだ5歳という幼い年齢です。

まさに息子可愛さに目がくらんでいる状態といえるのですが、一方で冷静な目も持ち合わせていました。

自分が死んだ後には、天下は自然に徳川の家風に染まるだろうといった言葉を残しているからです。

そして、徳川と合戦するよりも、秀頼のことを徳川に悪く思われないようにしてほしいといった言葉を家臣に残しています。

つまり、政権は徳川に譲っても、秀頼が生き延びて豊臣家が存続してくれたらそれでいいという気持ちもあったのです。

しかし、秀吉の死後、大阪夏の陣で徳川に敗れた秀頼は自刃して豊臣家は滅亡してしまいます。

まとめ

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉ですが、晩年には幼い息子の行く末を案じていました。

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