「徳川秀忠」は、江戸幕府を作った「徳川家康」子供であり、江戸幕府における第2代将軍で有名です。
しかしながら関ケ原の戦いではそれ程大きな戦果をあげた訳でもなく、どうしても初代将軍家康と3代将軍家光に隠れた将軍と言わざるを得ません。
そんな「徳川秀忠」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「徳川秀忠」とは?簡単に説明
「徳川秀忠」は、徳川家康の3男として生まれました。
家康の長男である信康は信長に切腹させられ、次男の秀康は豊臣秀吉の養子となっているため、3男であった秀忠が家康の跡を継ぐ事になりました。
1605年、秀忠はまだ27歳の時に第2代将軍の命を受けましたが、実際に政権の舵を握っていたのは家康でした。
家康の意向をその通りに実行するという将軍・秀忠の時代は、1616年に父・家康が亡くなるまで10年続きました。
秀忠は、初代将軍家康とは違い、どちらかと言うと冷静に、時には冷酷な性格で粛々と政治を進めていった将軍でした。
1623年、将軍を嫡男であった家光に譲りますが、家康に見習い実権は手放さず執務をこなします。
1631年頃から体調を崩しがちになり、1632年に病気で死去しました。
「徳川秀忠」の死に様
1623年に将軍職を家光に譲った後も、積極的に執務に関わっていた秀忠はまさに健康体そのもので、秀忠の体つきは筋肉質だったと言われています。
そんな秀忠でしたが、1931年7月ごろに突然の胸の痛みに襲われ倒れている事が当時の記録に残っているそうです。
その2週間後にも再び不調を訴え倒れますが、この際の原因は書かれていません。
そして寛永9年1月24日に亡くなってしまいました。
体調不良を訴えてからわずか7か月の出来事でした。
「徳川秀忠」の死因は一体何だったのか
「徳川秀忠」は筋肉質で、比較的健康体だったという事ですが、体調を崩してから半年程で急激に衰弱し死去しています。
その死因については、当時の書物によると「寄生虫病」と書かれているようです。
当時の秀忠の友人であった人物が書いた手紙には、秀忠の身体から寄生虫が出てきたという記録があります。
しかし本当の死因については諸説あり、「胸の痛みを訴えた」事から、心臓に関する病気だったのではないかという説や、父・家康の死因とされる「胃がん」を同様に患っていたのではないかという説が存在します。
いずれにしろ当時の医者では、はっきりと病気を特定する事は難しく、適切な治療を行う事は難しかったのではないでしょうか。
54歳での死去でしたが、当時の平均年齢であった30代~40代を考えると比較的長寿だったと言えます。
まとめ
「徳川秀忠」は、比較的健康体だったのにもかかわらず、体長を急激に悪くして半年ほどで亡くなってしまいました。
医療が発達していない当時としては、病気の原因を特定する事は難しく、特定できたとしても適切な医療を施す事は技術的に難しかったでしょう。
そのため、秀忠は当時の医者を信じる事しか出来ず、医者が勧める薬を飲み続けましたが、そのまま亡くなってしまったのです。