「藤堂高虎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「藤堂高虎」の死に際とは?日本の人物

「藤堂高虎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。

「藤堂高虎」とは?簡単に説明

太閤・豊臣秀吉ほど成り上がった訳ではありませんが、一介の武将で主君を多々替えながらも成り上がり、最後は徳川家康に重用されるほどにまで出世した異例の人物、それが藤堂高虎と言っていいでしょう。

本格的に高虎が頭角を表すのは近江を出て、羽柴秀長に使えてからのことです。

当時としては異様な大男で武功をたて、その後に謀略、築城技術を会得しています。

一度は出家するも秀吉に請われ還俗、以降は大名として、晩年は徳川の忠臣として、家光の時代まで奉公を続けた人物です。

「藤堂高虎」の晩年

四十代半ばの関ヶ原の戦いから、徳川家の天下取りに貢献した藤堂高虎は外様大名ではありますが、別格譜代として重用されていました。

家康が亡くなった後も秀忠の治世を満期支え、家光の将軍在位期間中の1/4、命尽きるまで奉公しています。

また自領の伊勢津藩で藩政を確立させていたこともあったのでしょう、若き藩主蒲生忠郷、生駒高俊、加藤忠広の陸奥会津藩、讃岐高松藩、肥後熊本藩でそれぞれ後見人を務めました。

忠郷には娘、高俊には養女を正室に娶らせてはいましたが、幕府の命令で家臣を派遣し、幕府の重臣として貢献しています。

またおよつ御寮人事件のおりには幕府の使者役を自ら進んで務め、天皇を恫喝、四辻与津子の追放・出家と秀忠の娘・徳川和子の入内を実現化させました。

古稀の手前から眼病を患い、没年には失明したこと、そしてもちろん年齢的なこともあり、晩年は表立った行動の記録は少なくなり、寛永7年(1630年)10月5日享年75歳でその生涯を閉じています。

「藤堂高虎」の死に様

寛永7年(1630年)10月5日に現在の現在の大手町にあった津藩藤堂家の上屋敷でその生涯を閉じました、享年75歳のことでした。

普請の際に水に濡れて、喉の痛みと下痢を発症しており、桔梗湯を煎じて飲ませたという記載が残っています。

ウイルスによる感冒、体力を下痢で体力を消耗した末、肺炎になったものと推定できますが、死因は不明とされています。

「藤堂高虎」の死に様の信憑性

高虎は1623年頃から眼病を患い、亡くなった1630年には失明したと言われています。

普請の際に誤って水に浸かってしまい、喉を痛め下痢をしていた記載が残されています。

しかし普請といえば天下普請や城普請の言葉があるように、土木作業や工事が該当します。

いかに高虎が行動力のあるご老体だったとはいえ、高齢で目の不自由な人間(恐らくこの時点で失明していた可能性が高い)、しかも高齢の藩主を側近衆が視察とはいえど普請の場に出すとは思えません。

確かに記録は残っていますが、若干の疑問は残らざるをえないでしょう。

まとめ

「国家の大事のときには、一の先手は高虎、二の先手は井伊直孝」と家康が遺言で言い残したほど、徳川幕臣以上に信頼を受けたのが藤堂高虎と言っていいでしょう。

高虎もその家康の言葉通り、家康の死後のおおよそ15年、還暦、古稀を過ぎ老いてなお忠義を尽くすのでした。

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