参議院議員を務めたこともある落語家の立川談志(たてかわだんし)(7代目)は、75歳で亡くなりました。
今回はその死因について詳しく解説していきます。
「立川談志」とは?簡単に説明
昭和10年に現在の東京都文京区で誕生した立川談志こと松岡克由(まつおか かつよし)は落語立川流の家元である落語家です。
落語に加えて講談や漫談なども得意とした古典落語家としての顔を持つ一方で、参議院議員や、沖縄開発庁政務次官、サイバー大学客員教授などを歴任するほどの多彩な才能を持つ人物でもありました。
昭和40年には、後に不動の人気テレビ番組となる「笑点」の総合司会者を3年半に渡って務め、談志のアイデアで始めることになった番組内での大喜利は、令和時代までその人気が続いていくことになります。
平成21年、咽頭がんを発症したことにより長期休養に入ることを公表した談志でしたが、本当の理由は伏せられていました。
闘病生活が続きますが、2年後の11月21日、75歳で死亡しています。
「立川談志」の死に様
立川談志は咽頭がんと診断されてから、放射線治療などにより一時はがんが沈静化したものの、その後再発してしまったことにより、医師より声帯の摘出手術を勧められます。
しかしながら、落語家の命と言っても過言ではない声を失うことを許さなかった談志は、がんの表面の一部のみを取り除く手術を行い、完治していないのどから懸命に声を出して、高座に立ち続けていました。
その後、がんの進行により呼吸もしにくくなってきていたため、切開手術により窒息を防止するための管をのど元に通しました。
手術後、8か月ほどの期間に渡って入退院を繰り返しながら自宅療養に努めていましたが、衰弱が激しかったことで再入院した矢先に昏睡状態に陥ってしまい、そのまま心肺停止状態になって息を引き取りました。
「立川談志」の死に様の信憑性
気管切開の手術後、ほとんど声が出なくなってしまった立川談志は、術後家族に対して筆談で「しゃべれるのか、声は出るのか」などと尋ねたそうです。
のどから絞り出すようなしゃがれ声で「私の名前は立川談志」と言ったきり無言になってしまった談志の心中は察するに余りあるものがありました。
その後は意思疎通をするために筆談を行い始めますが、徐々に衰弱が進んでいったことで、彼が書いた字は少しずつ読みづらくなっていきました。
この時期、介護レベルのもっとも高い「要介護5」と認定されていた談志は、飲み物も食べ物も一切口にすることができず、家族の介護の元で闘病生活を送っていました。
この時面倒を見ていた長女は、破天荒なイメージが強かった父のジェントルマンな一面を見ることができて良かった。
と語っており、看取った息子からも弱音を全くはかない見事な最期だった。
というコメントが残されています。
「立川談志」の小ネタ等
その歯に衣着せぬ物言いにより破天荒なイメージが付きまといがちな立川談志ですが、未だかつて弟子入り志願者を門前払いにしたことはまったくなかったと言います。
また、一部の特殊な事情を除いて、一旦入門させた弟子に対しては破門者もほとんど出していないことが知られており、イメージとは異なる大変温かい人物として知られています。
まとめ
人気テレビ番組「笑点」の初代司会者として知られる立川談志は、75歳で亡くなりました。
軽快でキレのある彼の話しぶりや、高座で披露しつづけた古典落語の数々は、現在に至るまで数多くのファンの胸に焼き付いています。