「高坂昌信」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「高坂昌信」の死に際とは?日本の人物

百姓から「武田四天王」にまで登り詰めた武田家臣の出世頭「高坂昌信」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「高坂昌信」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「高坂昌信(こうさか まさのぶ)」とは?簡単に説明

「高坂昌信」「武田信玄」「勝頼」親子に仕え、「武田四天王」の1人に数えられる戦国武将です。

「春日虎綱(かすが とらつな)」の名でも知られ、もとは百姓の生まれでしたが、身寄りを無くした際に「信玄」から取り立てられました。

その後、足軽大将を経て、越後上杉氏に対する守りとして海津城代に抜擢されます。

永禄4年(1561年)に「上杉謙信」との間で「第四次川中島の戦い」が起こると、「高坂昌信」は別働隊として活躍し、武功を立てました。

その後も、「三方ヶ原の戦い」をはじめ、主戦に参陣しています。



「高坂昌信」の晩年と最期

元亀4年(1573年)に「信玄」が没し、息子「勝頼」が武田家を継いだ後も、「高坂昌信」は海津城を任され、天正3年(1575年)に武田氏と織田氏の間で起こった「長篠の戦い」でも、上杉氏への備えとして海津城に留まっています。

しかし、この戦いで武田氏は敗北を喫し、その後、衰退の一途を辿っていくのでした。

天正6年(1578年)に越後上杉家で後継争いである「御館の乱」が起こると、「高坂昌信」は甲越同盟締結のために、後継候補の1人である「上杉景勝」との取次役を担います。

「高坂昌信」の史料は、この甲越間の交渉における同年6月8日付の書状を最後に途絶え、同年6月14日(諸説あり)に享年52歳で死去しました。



「高坂昌信」の死に様の信憑性

「高坂昌信」の命日には諸説あり、5月11日とする史料や、5月初7日とする史料がありますが、甲越同盟の交渉の時期に鑑みるに、辻褄が合わないとされています。

そのため、「武田家過去帳」による6月14日が命日とする説が最も妥当とされているようです。

武田信玄との衆道関係

後世、「信玄」「春日源助」という人物宛てに送った手紙が見つかっています。

手紙には浮気の弁明のような内容が綴られていました。

当時、武家の俗習として「衆道」(上下関係にある男性間の性愛)が一般化しており、さらに、この「春日源助」なる人物が「高坂昌信」であるとされ、「信玄」との間に衆道関係があったのではないかと推察されています。

しかし、一方で「春日」の姓が後から付け足された可能性も指摘されており、真偽は定かとなっていないようです。

まとめ

「高坂昌信」「武田四天王」の1人として、武田家に仕えた戦国武将です。

百姓の出身ながら、「信玄」に取り立てられ、後に海津城代として、対上杉氏の最前線を担うまでに出世を果たしました。

晩年は衰退していく武田家を支えるために、上杉家との同盟締結に努めますが、交渉の最中、天正6年(1578年)6月14日(諸説あり)に死去したとされています。

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